愛国心とかネオ・リベラリズムとか(書評)

 薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義 不平等か不自由か』光文社新書265(\740)

 「政治について頭の中のごちゃごちゃしたところを一度はっきりさせたい」とか、「ほんとは右でも左でも主張はよくわからないしどこを応援するか考えたい」とか思っている人にお薦め。真剣にお薦めです。ばさっと明快に切っています。
 まあ小気味良すぎるほど小気味よく書いているところがこの本の最大の長所でもあり、もしかしたら短所でもあるかも(>強引にまとめすぎかも)しれないのですが、新書はこうでなくっちゃと思うのです。(小飼弾氏も「目からうろこ」と絶賛(笑)。ぼちぼちあちこちで評判になっていますね)


 たとえば愛国心国家主義などについては、

 フランスの1848年憲法は、民主主義を自由主義から解放する契機を体現している。そこには、「国家的支配からの自由=民主主義」という保守的な図式から、「民主主義=国家的支配への国民参加」という図式への移行が見受けられるのである。…なおこの場合、全国民が参加して作る官や公こそが、民主主義の担い手となるのである(p.144)


…となると、愛国心軍国主義帝国主義と混同することほど、非論理的な誤解はないことになる。愛国心、国家への奉仕義務、征服戦争の放棄、民主主義、国家が国民の守護者たる義務、これらの項目は、少なくとも論理的に考える限り、相互に矛盾するものではないのである。
…いずれにせよ、愛国心があるのなら軍拡路線を容認せよという主張もバカげていれば、軍国主義に反対するならば愛国心も否定せよという主張もまた、同じくらいバカげている(p.145)


…戦時体制下の日本において、民主主義や社会主義自由主義が同列に弾圧されたのは、それらが、どれも滅私奉公型の国家主義の対立項に置かれたことに起因する。
…日本の戦後左派は、戦時体制下の価値観を批判してきたのであるが、この対立図式そのものは、無批判に受け継いでしまう。つまり、国家主義と民主主義を対立させるという考え方において、戦時中の指導者と戦後の左派は完全に一致するのである(p.148)


…しかし、国家主義は必ずしも排外主義や帝国主義と結びつくものではない。国家主義は、それ自体が民主的であるわけでもなければ、非民主的であるわけでもないのである。それは時と場合によって、軍国主義にも民主主義にも社会主義にも結びつくのだ。そもそも、国家主義が具体的に形成されはじめたのは、民主主義を求めたフランス革命を大きな契機とするものであったという歴史的事象を忘れてはならない。
 実際、民主主義と国家主義は必ずしも矛盾するものではないし、自由主義個人主義がいつも同じ側にあるとは限らない。さらに、国家主義個人主義もまた、必ずしも対立するものではないのだ。そして、社会主義国家主義は、むしろ切っても切れない関係にある。現に、フランスの左派は、国家主義的で社会主義的で個人主義的な民主主義を標榜しているのである(p.149)

 こういう具合にばっさりです。これはまず筆者の薬師院氏の頭の中で、すべてのタームが明確な定義を持つということで成立している議論だからだと思います。あいまいな用語の用い方、政治的な意味合いの強い不確かな語彙、誰かを罵倒するための語に成り下がった術語…そういうものがないので、すっきり明晰な話になっているという感を受けます。


 もちろんこういう「明快な議論」では、批判も直截的にやってくるでしょう。筆者はそれは受けて立つ気が満々のようにも見えますので、今後いろいろ論争がありそうなのも楽しみです。


 本書の中心議題は、自由民主主義と社会民主主義、すなわちアメリカ型の自由主義とフランス型の平等主義という二つの民主主義の理想というものを明確に示して、日本の政治はそのどちらを選ぶのかという「選択肢」を私たち日本の有権者に見せて欲しいと言うことです。

 本書の課題は、21世紀初頭以後における日本社会の在り方について考えることである(p.17)

 そこには日本の左右両陣営に対する批判はありますが、どちらに肩入れするでもなく、比較的公平で学問的な見方があると感じられました。


 筆者によれば「極めて大ざっぱに言うならば、ヨーロッパにおける選挙は、常に自由(右)か平等(左)かの選択となる(p.55)」のです。そしてむしろ日本における右や左の位置づけこそが特殊な在り方なのであって、政治的選択が<右派=自由主義>と<左派=平等主義>の間の選択とならなかったのは、日本でのそれら思想の導入、自由や民主主義に対する大きな誤解があった…というように議論は続けられます。


 ここで簡単に筆者の言うこの二つをキーワードで並べると、

 右=自由主義=小さな政府=政府の力を制限=民間・NPOに任せる=減税=自由の強調(アメリ憲法
 左=平等主義=大きな政府=福祉型国家=自由の制限=高負担・増税=公平・平等の強調(フランス憲法

 という具合にでもなりましょうか。
 ところが日本では、右も左も今まで「自由」を強調するのみでした。これは話がわかっていなかったということでもあります。

 自由民主党が「リベラル・デモクラティック・パーティー」を名乗り、民主党の中堅・若手議員が「リベラルの会」を作り、社会民主党が「社民リベラル」を掲げる日本では、リベラルとリベラルとリベラルの中から一つを選ぶという選択しかない。格差社会に文句を言う勢力はあっても、ただ文句を言うだけで、自由主義以外の選択肢を出さないのである(p.105)

 つまり格差社会に文句を言い平等主義を掲げるならば、それは上記「左派」の立場になるわけで、その左派が目指すべき福祉国家社会主義は、大きな政府による「上から」の社会介入によってしか成り立たない(p.85)はずだと筆者は言います。それはある意味「自由の制限」なのですが、それがわかっていないと見えるが故に筆者は「日本の戦後左派がたどってきた歴史の珍妙さ(p.85)」などという言葉でそれを批判するのです。
 ただ同時に、日本の保守についても「自由の制限によって既得権益を守ることが保守主義だと理解されてしまった(p.67)」という具合に、その妙な在り方への批判もなされます。そしてやっと小泉内閣の時に、日本の保守政党が民間主導の自由主義を明確に打ち出した(p.79)と評価はなされますが、その小泉氏に対しても

 親米路線を強調し、アメリカ型自由主義に準拠する小泉政権が、「小さな政府」を訴えながら増税したのだ。いったいわれわれは何を選び、どこへ行こうとしているのか(p.102)

 というように批判がなされています。


 本書の議論で、私の中のもやもやも一つすっきりしてきたようにも思います。
 ネオ・リベラリズムと言っても、それを記述的な用法で語るのでなく、怪しげな何か危険なものがそこにあるような政治的な話をしているものは、そのほとんどがあまり意味のないものだったと見えてきたのです。それは、平等主義的民主主義が絶対的に良いと意識的に(あるいは無意識に)思う側からの、自由主義的政策に対する罵倒だったと考えれば結構多くのことが腑に落ちます。ネオ・リベラリズムというものをきちんと説明できないままに「ネオリベ批判」をなさっている方にも、本書はぜひ読んでいただきたいものだと思うのです。


 読後感の爽やかさは最近では出色で、頭の中が整理されすっきりした感じになること請け合いです。既存の政治をこれだけきっぱり切っている語り口は、絶対今のネット世代に大うけする感じだと…。
 ただ、これですべてが明瞭である…と言い切るのはちょっと待つべきかもしれません。そうは言っても新書です。最近の新書の乱れ売り、内容すかすかの新書が多く出る今の状況の中では稀に見る「価値ある新書」かもしれませんが、ボリュームに制限があること自体は否めません。これを参考に考えを整理するのは良いと思いますが、そこから先はそれぞれ自分で情報・資料を集め、自分で考えていかなければならないと愚考します。
 でも政治に興味があるような方には、お買い得な740円の娯楽ですよ…