無理心中

 人を殺して自分も死ねば、それは心中ということになるのでしょうか? 無理心中というタイプの。
 で、それが無理心中ならば、案外「殺人」という色が薄まって見えるとかいうことなのでしょうか。


 私自身、自分で戸惑いを感じています。
 無理心中は殺人だろうと、そう思ってはきました。でも同時に、ひと一人殺してしまったなら自分も死ぬ以外に償いなんて…とどこかで思ってしまってもいます。つまりそこでは「殺す」―「殺される(死ぬ)」である種の均衡を感じているともいえるわけです。ただ最初から裁判などで争うということなしに、無理心中という形でいきなりその「均衡」を突きつけられたとき、すっと納得できるかというとそれも微妙なのですが。


 ただそこでも微妙は微妙なりに落ち着くということもあります。介護に絶望して親を殺すだの子供を殺すだの、そういう類の事件で「自分も死ぬ」という結果が付随していれば、ひどい殺人とはあまり思わないようなんですね>自分。


 無理心中に感情的に寛容な社会、というところに私も住んでいるのかなという気がいたします。