ふと思うこと

(こわいの ――だって)
 大好きなひとの大事な人生を変えてまで
 選ばなければいけない道って何?


(修ちゃんはきっと 全部くれるっていうから)


 私はそれとひきかえに
 修ちゃんに
 一体 何をあげられるんだろう


(『ハチミツとクローバー』第9巻)


 女と男の関係だって、いろんなものがそこにあるはずです。むしろ説明するのが難しいのがその「関係」というものだと思います。性的なものだって当然あります。馴れ合いだってあるでしょうし、友情みたいなものもあるかもしれません。時にはアクセサリだったり、利用し利用される都合のいい面だって含んでいるでしょう。
 でも本当に離れる時になって思うのは、そういう要素に還元した何か部分的なものじゃないような気がします。


 人と人の関係としても、むしろそれは表面のシンプルさを裏切るようにいろいろな側面がそこに潜んでいるのです。ただ、それがはっきりわかるのは「関係」が深い場合のみで、薄い「関係」の時はそれが表面に現れないで気付かずに過ごしてしまうというだけのことなのです。何も残らない恋愛が、全く無意味であるように。


 男女関係を全部「性欲」に還元して、人と人の関係を全部「権力」に還元して、そのシンプルな図式で何事かわかったようなつもりになる時があるとしても、それは独りよがりの部分的な理解に過ぎません。それが何がしかを私たちに教えてくれるとしても、それが全てと思ってしまうのはあまりに幼いことです。


 もし動物に心があると信じるならば、人とその動物の関係だって同じです。それは途方も無く複雑な「関係」なのだと思います。どの「関係」にしても、大概そこまで突き詰めて考えることはありません。心地よい日常の中で、その「関係」はただ生きられていきます。でもたとえばそれを失う時になって、それは何だったのだろうかと、その意味は何なのかと自分に問いが現れてくるのだと思います。答えがすっきりわかるはずのない問いが。


 もともとその対象と一つではないからこそ「関係」が生まれるのです。それは時に一体化の幻想を与えてくれるかもしれませんが、むしろ一体ならばそれは関係ではあり得ません。どんなに一体に思える時でも必ず一抹の危うさが残るからこそそれは「関係」なのですし、その予感があるからこそそれをいとおしむのではないでしょうか。


 だから、私は「全部くれた」相手に同じだけのお返しをすることはできなかったのですが、でもその相手が自分に「全部くれた」ということだけは死ぬまで憶えていようと思っています。それを憶えていることが、その「関係」に対して私ができる精一杯のことなのだと考えているからです。それは多分、何かに還元して(というより言葉にして)すべて理解できるような「関係」ではなかったはずなのですから。