遠近法の誤り

 自分に身近なものは大きく見えて、その主観的重みが論理を歪めてしまうことは往々にしてあります。国旗に対する我が国の「こわばり」やそれへの賛否についても、身近なところだけで考えてしまうと「天皇制」やら「国家神道」やらに絡めて語る人もでてくるわけですが、昨日引いた朝鮮日報コラム「ドイツの愛国心論争」などを見ると、先の大戦の敗戦国ドイツにおいても似たような状況があったとわかるわけです。

「本当にこれでいいのだろうか?」。あるドイツの新聞はこんな見出しをつけた。


 黒・赤・黄色のドイツ国旗が国中を覆いつくしていることに対しての率直な疑問だ。FIFAワールドカップ(W杯)ドイツ大会が始まった瞬間、街中を歩く普通のおばあちゃん達までドイツ国旗がデザインされたTシャツを着て、若者にいたっては大きな3色旗をマントのように身にまとい街を闊歩している。普段は閑静な森に囲まれた住宅街のバルコニーや窓にも今やあたりまえのように3色旗が掛かっている。さらには車の両側にも3色旗を角のように2本立てて運転している。


 こうした光景は韓国人にとっては見慣れたものだ。ところがドイツ社会では、現在これをめぐって激しい論争が繰り広げられている。「こんなにあからさまに集団的な愛国心を表してもいいのだろうか」と。


 W杯開幕前は両目を見開いて街を眺めてもほとんど見当たらなかったドイツ国旗。法律で禁止されているわけではないが、一部の役所を除けばドイツではめったに国旗を掲げない。民族と愛国心の名のもと、集団狂気に陥ったナチス政権時代の悪夢の名残だ。今でもドイツ人の心の中には、そうした過去の自意識が依然として潜在しているのだ。そのため国旗や国歌を身近なものにすることには慎重にならざるを得ない。


 それでも国家と国民のアイデンティティは必要ではないだろうか。ナチス時代が終わってから60年経った。実際、ドイツ政府やシュピーゲル紙は去年初めから「君はドイツだ」というキャンペーンを始めた。しかしこれは「国境が消えつつある時代の潮流とかけ離れている」と嘲笑されることはあっても、大きな共感を得ることはできなかった。結局、このキャンペーンはW杯とともに「W杯開催国に対し、かつてのナチスや極右派のイメージを思い起こさせる」と批判され中止にせざるを得なくなった。


 もちろん、一部のメディアはW杯開幕直前までその使命感を捨てなかった。「今や私たちも愛国心を語ってもいい時期ではないだろうか。私たちはなぜ愛国心の前で後ろめたさを感じるのだろう。私たちにとってドイツという国はないのか」と。 (後略)
(引用再掲)

 かつて「日本の問題は先の敗戦の責任を天皇がとらなかったことにある」とおっしゃる方が結構私の周囲にもいましたが、徹底的にヒトラーナチスに責任を取らせ(押し付け?)たドイツにおいても、敗戦後のこわばりは拭えていないわけでして、愛国心に関する問いかけ・国旗掲揚の是非論というものは同様にあったということなんですね。


 例の裁判の争点は教育委員会の指導・通達による処分は是か非かというあたりにあったのですが、その問題の背景に天皇制とか国家神道を持ち出してくると、愛国心に関する問題が日本限定でしか捉えきれないと思うのです。裁判のその「指導」の問題など、この一件に固有の争点というのももちろんあるでしょうが、なぜ国旗に対して敬意を示すことに是非が問われるのかというこの問題の本当の背景は、ちょっと考えても特殊日本だけのことではないと見えるのですが…。