再チャレンジ?

 「再チャレンジ」という言葉は、どうしても単線の、何か一つの路線に拘っているときの言葉ではないかと聞こえます。ある道を進むのに失敗して、捲土重来、再度その道を行きなおすというような。
 人生は単線の道でもありませんし、本来一つの路線で失敗・挫折しても他の道はいくらでもあるようなものでしょう。決して理想論ではなく、それは自分の心一つで見えてくるものじゃないかと思っています。


 たとえば世俗的な成功、名声、財云々というものが目指され、そこに至るために学歴、キャリアe.t.cの積み上げが必要だとか、たとえば絵に描いたような幸せな人生というものがあって、そこに届くために幸せな学生生活や恋愛、そして自分を一番理解してくれる無二の人との出会いがあって子供ができて…とか、それらはあくまで一つのモデルケースでしかないでしょう。といいますか、「皆がそう思っているだろう」という想像上の意見集約が為されたようなむしろ非常に空想の余地がない殺伐としたグローリアス・ロードなわけで、それだけで自分をはかり他人をはかるのはお馬鹿なことです。


 もちろん学業成績で評価されたり、モテたり、同僚との競争に勝ったりというところで個人的な幸せを感じるのに毛頭文句をつけるつもりもありませんが、逆にそれらが得られないからといって強い不幸せを感じなければならないということはないのです。
 確かに私が若かった頃より、もっと「恋愛しなければ負け組」「有名な学校に入らなければ負け組」「年収600万に至らなかったら負け組」等々の社会的風潮(というよりメディアの煽りみたいなもの)は強く強くなっている気もするのですが、最終的なそれらの価値の選択権は自分にあるというのも事実です。


 人目を気にしないとか、世間にどう思われてもいいとか、人並みの幸せをのぞまない、というのが実は難しいことであるのもわかっているつもりです。それでもそういう選択肢もあるのだと思えるだけで結構人生を楽に過ごせるようになるんじゃないかと思いますね。


 私は、政府に対して「すべての人の年収が400万円を切らないようにする」ような政策を求めても仕方がないと思っています。もしそういう社会が実現したとしても、例のあのOECDのインデックスでは「年収の平均の四分位点の一番下」の層は自動的に「貧困層」ということになります。結局その幻想の貧困層は無くなるということがなく、いつまでも不満を抱いて暮らさねばならないという結果しか見えないのではないでしょうか。


 むしろ私は、複々線化、あるいはもっと多様に選べる道が当たり前のようにある(つまり後ろめたくなくいろいろ選べる)人生が実現できるような社会が一つ理想だと思いますね。
 それは単純な再チャレンジとかいうキーワードで描ける世界だと思いませんし、どこかその「再チャレンジ」という言葉には「もう一度同じ道を競争してみなさい」と言っているような、そういう含みを感じてしまいます。