いじめでの「自殺」

 滝川市の教育部長や教育長、市長が自殺した女の子の家へ行って謝罪したという報道を見ました。急転直下の謝罪劇になりましたが、もとよりこのような事後のごたごたが解かれてもそこで得られる慰めなど取るに足りないものでしかありません。ご遺族の心中をお察しし、亡くなったお子さんのご冥福をお祈りします。


 ただこの自殺の件をぼーっと考えていて、やはり「自死」という手段を選んだこのお子さんは、どこかに「意趣返し」の気持ちを抱えていたとも思うのです。小中学生の、それも自死までのいきさつを書いた遺書を残したケースは、多かれ少なかれあて付けの面を持つとずっと感じてきました。自分の子供だった時を考えても、もちろんそれは空想でしかなかったのですが、自分がここでこのタイミングで死ぬ・家出する・消えるなんてことがあればどれだけ○○*1を後悔させてやれるだろうか…という妄想にも似た想像があったと憶えています。
 そこにはそのかわいそうな自分への(暗い)気分の高揚と、たとえばそこで悲しむ・後悔する・責められるであろう○○へのしっぺ返し(の空想)によるぞくぞくする(でも悲しい)快さが正直あったと思います。『トム・ソーヤの冒険』であの陽性のトムや仲間でさえ、そういう想像を巡らしていたじゃないですか。あの作品が名作とされるのも、ちゃんとそうした子供の心に対する洞察を表現し、読み手に確かにそうだったと思い起こさせるところがあるからではないでしょうか。


 子供だってちゃんと考えています。家族の関係でも、友達の関係でも、いろいろな力関係や自分の非力さを知っています。だからそういう弱い立場の子供がぎりぎりのところで、自分を損じる形での復讐(のようなもの)を空想し隠微な喜びを感じてしまうのは、これはもう当たり前のことのようにも思えます。


 ただ、それが想像に留まらず一線を越えてしまうのは、何とも悲しいことです。もっと子供たちに知恵をつけてやって、そうした意趣返しの試みは結局は独り善がりになりがちだということ、そしてそこで得られるものなんてほんの微々たるものでしかないこと、どう考えても自分の負けになってしまうということを、できればはっきり知って欲しいと考えたりもしています。


 多分、小中学校の先生はストレートに暗い情念を認めてやることができないのでしょう。その点でどうしても子供の気持ちに届いてやることができないというところがあると思います。
 今回の亡くなられたお子さんのケースは、あまりにも救いようが無い辛い状況があったのかもしれません。だから後知恵でいくら言っても仕方がないと無力さを感じるのも確かです。でも、それでもなお機会があったならば、同様の暗い思い付きを抱いていたことがある者として、やっぱり実際の行動は止めた方がいいと追い詰められて空想している同じような子供たちに忠告してやれたらと、こういう話を聞くたびに考えてしまいます。


 子供はお酒で紛らすこともできません。うまく自分の心をごまかす術にも長けていません。不器用で、悲しいほど未熟です。それゆえ、何か言ってあげられたら、してあげられたらと強く思うのです。

*1:ここには親だとか同級生だとか適当に…