いじめでの「自殺」(続き)

 滝川市の女の子のケースでは「キモい」と言われたということが採り上げられていますが、これは彼女が孤立させられていたために致命的に響いたものだったと考えます。言葉自体が凶器であるというよりは、関係性の中でそれが凶器にもなり得るということなのでしょう。
 「キモい」という言葉が悪い、それを使うのを止めよといいたくなる気持ちもわかりますが、たとえば30年前に子供のわたしが「キモい」と言われてそれで傷ついたかというと、まずその言葉を聞いたことがない私にはダメージはなかったでしょう。(もちろん「気持ち悪い」と言われればへこんだでしょうし、「気持ち悪い」より軽く使える「キモい」という言葉〜使う側の罪悪感を少なめにするもの〜が増えるのは問題ですが、それはまた別のお話)


 以前にも書きましたが、意図的に中傷語・悪口を禁じてもそれはまた別の罵倒語を生み出すことにつながり、このイタチごっこにおしまいはないように感じます(過去日記:特殊学級の改称)。


 言葉が人を傷つけるからといってその言葉をどんどん制限していくのは、やはり包丁が人を傷つけるからそれを販売しないというようなことではないかと思うのです。武器が無ければ人は人を殺さないかというと、そんなものではないだろうとも感じます。強力な武器がなければ大量に殺すことはできないだろうという推測には納得しますが、差別語を全て無くしても差別がなくなるわけではないとも考えます。ポリティカル・コレクトネスにはずっと疑問を持っているのです。


 「平和の象徴」であるハトは、鋭い爪や嘴を持たない「戦闘力のない鳥」であるがゆえに、仲間同士のいじめや殺し合いが長くだらだら続く非常に陰惨なものになってしまう…。この話に、私はずっと考えさせられています。確かこれは三原順さんの『はみだしっ子』にあった表現でした。