リレーの譬喩

 公平な競争というイメージから「相続税を100%にする」という発想を耳にすることがあります。スタート地点での平等というものを突き詰めて考えれば、確かにこういう考え方もでてくるでしょう。「生まれながらに(金銭的・身分的)有利不利があるのは不公平だ」からという話ですね。そして並んでヨーイドン。これで負けるならあきらめもつくけど…というのは、それなりに多くの人の頭にもあるかもしれません。「スタートラインを(できるだけ)平等に」という公平さを願うのは、確かに私たちの正義感にもマッチするようです。


 しかしこれが「個人種目」のスポーツ(たとえば短距離走とか)の比喩でしかないということにお気づきでしょうか? スポーツにもいろいろありまして、オリンピックの時などを除くとたいていの人が熱狂するのはむしろ「団体種目」のスポーツだったりします。 そちらの方で譬えると、理解したつもりのものが違った様相で見えてくるということが案外あるのではないでしょうか?


 たとえば相続によって富が蓄えられるようなシステムは、リレー競技のイメージで考えると何だか不当なものに思えなくなってもきます。それぞれのチームは、世代ごとに全力を尽くしてリードを生んだり不利を挽回したりして次の世代に渡す。それぞれの代が血のにじむように築いたアドバンテージが、自分が託した後ろの走者に渡されるということですから、この比喩で考える人にあっさり「次の走者へのリードの引継ぎは駄目」として説得が通じるものでしょうか?


 まあこの場合のチームは小さい血縁中心のようなものかと思われますので、人によってはこのリレー競技イメージがピンとこないかもしれません。それならばこのイメージを国どうしの団体競技と考えてみてください。それぞれのメンバーとして競技に参加した時点で、すでに決定的な有利不利が歴史的に生み出されていたりするでしょう? 現代の日本に生まれるのと、たとえば内戦ありエイズの蔓延ありの発展途上国に生まれるのとでは、生き残る確率・ある程度長生きする確率すら比べ物にならないくらいの落差があります。
 このケースでも「それは不公平だ」と確言できるでしょうか? そこには歴史的な経緯があり、また先人の苦労もあります。戦後の焼け野原からの復興で、「この国を富ます」のを目指して歯を食いしばってみんな頑張ったものだ的な話は何度も聞かされました。 そういったチーム主体の想いなどは「もう関係ないよ」と言うべきなのでしょうか?


 「兄弟は他人の始まり」なんていう俚諺もありますが、親兄弟や親族、所属集団も「自分」ではないから自我の外にあると考えることもできます。ですが多くの場合、自我は「自分」を超えた関係や集団、場合によっては理想や思想さえも含む範囲へ拡がって存在しているのではないかと私は考えています。


 もちろんその在り方は人それぞれでしょうが、少なくとも個人主義的な比喩(個人競技の譬え)だけ使っていても、見えるものと見えないものがあるだろうなとちょっと思いましたので書いてみました。