いじめの早期発見

 これはもう少し落ち着いてからと思っていたのですが、一言だけ記しておきたくなりました。
 いじめの類は、完全に無くすことは無理だと思います。特にその定義を「いじめられた」という気持ちに求めるならば、それが皆無になろうなどとは考えられません。ですから図るべきはいじめの深刻化の防止、早期発見早期処置以外には無いでしょう。
 いじめられた感が誰にもない社会なり学校なりはすでに理想郷です。誰かが屈辱感を絶対に感じないでいられる理想など追うだけロスになってしまっているのではないかとも感じます。そういう建前を議論するうちに、とりあえず対症療法が肝要ではないかと思うのです。


 今より数を減らすことは可能でしょう。そのための方策として責任の明確化、ある程度の厳罰化も必要となるでしょう。たとえば現行の「いじめられた者が転校する」風潮だけは早急にやめるべきかと思います。いじめられた側が悪いわけではないのですから。厳密な調査と程度の把握は必須ですが、転校させるなら当然いじめた側です。 またいじめに有効な態度をとれなかった教員にお咎めがなく、いじめに有効に対処できた教員に賞賛がないのもやり方としてまずいでしょう。何よりうまく対処できたケースの知恵は生かすべきでしょうし。


 ただし、厳罰化(というより処分の厳格化)で減らせる数には限りはあるでしょうし、エスカレートさせて厳罰を与えること事態は避けるべきことがらに入ります。だから早期発見が大事なのです。
 早期発見しても周囲が然るべき手を打てないとなるならば無意味ですので、最低限そこには対処法のノウハウの蓄積と共有が必要だと思います。考えるに一つ一つのケースでは登場人物も違いますしさまざまな関係やニュアンスの違いは当然あるでしょう。しかしそれは対処法の構築を何ら妨げるものではないのです。たとえば集団カウンセリング。たとえば関わった者の措置謹慎。たとえば首謀者格の者の一時転校、等々やってみて効果がありそうなものを状況の確認と同時に行ってみて、ノウハウを検討していけば実効性のある対処法は見つかるのではないかと…。


 もちろんいじめた側がいじめられたり、いじめのつもりはなかったのに結果としていじめになっていたり、いろいろなケースがあると思います。単純にいじめられた側が常に善でいじめた側が常に悪というものではないでしょう。ですが、だからこそ求められるのが早期発見ですし早期処置なのです。