人間関係の「力」

 「それほど問題にならないいじめもある」などと言えば、あるいは相当な反発があるかもしれませんが、私自身の経験の中では確かにあまり残らないタイプのいじめもありました。短期間で済み、その後関係が改善されたというものに限定されますが。
 後に残るいじめとなりますと、誰それが死ななかったから結果オーライとはとても言えず、心の中にずっと痛みとして残ってしまう「目に見えない被害」があるものだと考えています。その解決まで望むのはおそらくできないことだろうとも。


 「いじめという言葉に皆振り回されているんじゃないですか」というコメントをいただいて、確かにそうだと思いました。そして、だからこそ重い意味を持たないうちに手当てできるならそれがベストではないかと改めて思ったのでした。
 ただ生徒個人の間での微妙なニュアンスを大人が拾い上げるのは相当の難事です。家族の本格的な協力があったとしても漏れはあるかと思います。生徒からの匿名の情報提供というのが取りあえず考えられる最善にも思われますが、これもまた「ちくり」云々でいじめの深刻化をもたらさないとも限らないのが難しいところです。方法をなんとか洗練させて…と願うばかりです。


 いじめをする側にしてみれば、その行為はおそらく「権力」(未熟な形ではあれ)を行使する快感につながることでもあろうと思うのです。感謝される行為をするより相手を傷つける方が楽で、しかもはっきり効果がわかり、味方(に類するもの)もできます。幼いながら「力」の行使に魅力を感じてしまうところがあるのではないでしょうか。
 それゆえ、その萌芽は矯め直されなければなりません。間違った形での「力」の行使が身につけば、それは三つ子の魂百まで…というように、一生抑制の効かない人間を生み出すでしょう。それは本人も周囲も不幸です。


 この点に関しては、親の誤ったサインが一番いけないとも思います。自分勝手な親からは往々にして自分勝手な子供がつくられるというのは、経験則としては本当にあることです。 学校も、親も、そして子供たち自身を巻き込んで、システム的にいじめの発見ができるような仕組みを考えるのが現状の最善ではないかと考えるのです。