自由

 自由っていうのはとても(orちょっと)寂しいものだなあと、更新しない自由(というか「さぼり」)を行使していた私が言うのも何ですが、ほんとにそれは思います。昨年は愛犬に逝かれ世話をしない自由を手に入れた私ですが、その自由の何と索漠としたものか。
 更新しなくなったのは母から「自由」になりそうになり、また父からも「自由」になりそうになってしまったというのも一つの理由ですが、まあ今のところ小康状態というかしばらくは私を自由にしそうにないところまで来てくれたので一息ついております。同居してないだけいろいろ大変でもありました。(便検査の潜血反応を三年もシカトしてみたり、明らかに狭心症の発作を何度か起こしながら全然医者に罹ろうとしないなど、何と言うか一気に問題化したときにこちらが参ります。)


 もちろん自由なんて一言でどうこう言えるものでもなく、それを語るなら「奴隷的状態からの自由」とか「政治的自由」とか「思想・信条の自由」とか、ちゃんと切り分けて話さなければならないと思いますし、行為・判断の自由のレベルでも他者の自由との兼ね合いとか公私の別とか、それは考えるだけで大変そうであるなと、とりあえず語る気力もありません(今は)。


 ただちょこっと思うのは、自由というものが無条件に善であり、求めるべきものであり、権利である…というような粗雑なことは言ってられないなということで、それでちょっと文学方面に逸れてみますと

  白鳥(しらとり)は哀しからずや そらの青 海の青にも 染まずただよふ


  若山牧水 『海の声

 というような感じでもありましょうか(<勝手読み)。
 私はこの「浮遊感」、「寂寥」を愛しますが、同時に自由の反対側の「影響される」「関わりを持つ」「愛着を持つ」「拘りを持つ」等々の「縛り」が無い人生を考えることもできません。
 自由はおそらく寂しく引き受けるものなのでしょう。