人間機械論

 柳沢伯夫厚生労働大臣の松江での発言ですが、なかなかその最初の生の発言に辿りつけず微妙にもどかしい感があります。ただ、「産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない」という肝心のフレーズの前に「機械と言っては申し訳ないが」とか「機械と言ってごめんなさいね」という語が挟まっているようなので、これは柳沢氏の「受け売り発言」だったような印象は強くします。
 あんとに庵さん*1いぶかしがっておられますが、これは何も機械云々の言葉を使わなくても話せる箇所なのは見て取れますし、敢えてここで産む機械だの装置だのとセンセーショナルな用語を使う必然性はないわけです。それでも言い訳じみた言葉を挟んでまで勢いで使っちゃっています。


 これは女性一人あたりの出産数を増やしてもらうことが大事、という内容の話を聞いた(レクチャーされた、座談した…)時に、その機械モデル・装置モデルの話で耳に入っていて、その流れで納得したんだか腑に落ちたんだかして、そのままの形で思考の一角に置かれていたものを「受け売り」して喋ったために「機械・装置」という言葉を抜いて話せなかったというお間抜けな事情があったものと思えます。
 単純に「聞いた時の比喩」をそのまま使ってしまったのではないかと、そういう感じを受けるんですね。


 もっと咀嚼してちゃんと考えの中に入れておけば避けられたのではないかと見るにつけ、彼の中での少子化とか出産とかに関する考えのいい加減さが自業自得の事態を引き起こしたのではないかとも感じます。
 ただこれを失言と認めて謝罪している状況下で、首を取ってやろうとか果ては政局にしてやろうとか結束している野党にも脱力を感じるのも事実で、国会を劇場化しようとしているのはあんた方じゃありませんかと、論戦よりも批難・批判・審議拒否で大向こう受けを狙うのはみっともないと見えてもいます。


 そういう文脈からちょっと離れて、この人間機械という発想で私が思い出したのは次の川喜多愛郎氏の言葉でした。(川喜多愛郎・佐々木力『医学史と数学史の対話 試練の中の科学と医学』中公新書、より)

 十九世紀の初めに科学としての医学がスタートして、初めて近代科学の隊列に加わりました。当然それは科学革命の哲学である機械論を採用しなければならないわけですね。生気論(ヴィタリスム)という言葉だって、近代に入って次第に強まる機械論の優勢に対する巻き返しとして、十八世紀末にモンペリエ学派の手で新しくコインされたものです。釈迦に説法ですが、昔は万物が「生きて」いたからには生気論などという言葉は無用だった。十九世紀の後半になってドイツの科学的医学が急に強力になった時にも、その担い手の多数は当然根っからの機械論者だったわけです。が、なぜその十九世紀のドイツ医学(実は生理学)が見かけほど緊密な論理をもたなかったかというと、それは機械論を貫徹するための方法をもたなかったからです。
 人体を機械と見立てるのは近代科学にとっては不可避の道ですが、古典的力学や光学、せいぜい初期の電気学ぐらいの武器では人体機械にはとうてい歯が立たなかった。しかも、生物機械論を貫徹させるのに不可欠の生物化学がまだ揺籃期にあった。

 川喜多氏は基礎医学の重鎮であり医学史の泰斗としても知られる方です。あの日野原重明氏より二歳の年長でいらっしゃいますがまだお元気でしょうか。この対談相手の「気鋭の数学史家」佐々木氏は、その後セクハラスキャンダル等で滅多に名前を見ることもなくなったのですが…。
 ま、そういうことはともかく、この本は新書ですがとても面白かったので再読いたしました。

 デカルト以来の生体機械論を見事に実証したのが、二十世紀の生物学です。ダーウィンの進化論、ヘルムホルツやマイヤーのエネルギー保存則、ジュヴァンやウィルヒョウにつながる細胞の発見、パストゥールの発酵論と微生物学の登場、メンデルの遺伝学、そうした十九世紀生物学の画期的な大業績はそれぞれ独立した文脈をもっていますが、それらを渾然たる一つの知識体系にまとめ、さらに精緻な言表にしたところに二十世紀後半の生物学があったのでした。
 今日のわれわれは生物を、多様に分化した細胞というミクロの機械を要素とするマクロの機械システムとして理解しますが、それは本質的にそれぞれ一つの開放系で、環境から切り離しては存立しえない、しかも大きな適応性に恵まれた、きわめて異例の柔らかい機械です。しかも食物連鎖から遡れば葉緑素を触媒としてその動力を一様に太陽光線に仰ぐヘリオセントリック(太陽中心的)な一族を構成しています。近年判明した全生物の遺伝暗号の共通性もその一族性を裏書しています。その意味ではヒトも当然それに含まれると考えてよいはずです。

 こういう視点は一つ一つの科学史、そしてその流れというものにとても興味を持たせてくれますね。端々に出てくる方々の業績など、知っているものもよく知らないものもありますが、機会を見つけて何か読みたいと思わせるところがあります。


 川喜多氏ご自身は、人体機械論だけでいいとおっしゃっているわけではもちろんありませんが、科学の分野(もしかしたらそれは一部人文科学にもかかるかもしれません)において、人間を装置として考えるとか、その機能・役割において考えるとかいうモデル思考は当たり前にあるのも事実です。

 医学史にとっては、人体機械論の成熟は反面、別の大きな問題を生みました。言うまでもなく、医学の対象は病人ですから、機械論的哲学は当然ヒトの人であるところを無視するわけですね。
 もっともそのへんを頭に入れないでも局面によっては立派に仕事ができるわけです。交通事故で救急病院にかつぎ込まれた患者を一応壊れた機械として扱う外科医を誰がとがめるでしょうか。
 …
 近代医学と生物学とを一つと見て大きな破綻をみせなかった近年の医学は現代生物学の急速な発展によって大幅な前進をとげた反面、根本的な見直しが求められているのです。

 ここで言われている「見直し」は、それこそ万能の(ように見えた)人間機械論で足りないものを補うという方向、医学分野での人と人、医師側と患者側のつながりを重視するという方向なのです。
 それでもなおそれは単純な機械論的モデルの否定とか、考えの浅い西洋近代批判ではありません。こういうところが科学者として好感が持てるところかなと思えますね。

 ヒトを含めて生物を機械モデルで考えるのは自然科学者としては方法的にまったく当然です。実験の結果としてネコの「怒り」の行動までは自然科学の対象になります。人体で実験しても、おそらく似たようなことが起こるでしょう。しかし、その人間は場合によってはその怒りや欲情を「抑える」ことができるし、「顔で笑って心で泣く」こともできます。自己意識か自由意志といった哲学の難しい言葉を持ち出さないまでも、機械モデルの網にかからない「心」の問題が答えを待っているのです。


 自然科学が近代に入って決然と採択した機械論的フィロソフィーは、生物学では今世紀ににわかにその力量を発揮して、生物一般については機械モデルの有効性はもはや繰り返すまでもないことですし、ヒトについてはほぼ同じことが言えると思うのですが、ヒトが人、人間(これには社会的意味を含ませましょう)でもあることは、特に私ども医学というアンスロポロジカルな「悩み」を相手どる技術を業とする者にとっては、その根本にかかわる問題となるのです。
 私は論理学には暗いのですが、それにしても「人間は機械である」というプロポジションは「機械は機械である」というトートロジーに類して、何の意味ももたないのではないでしょうか。

*1:おつとめごくろうさまです。無事ご退院されてなによりです。でもコメント欄はまだ封印されたままではないですか?