ホームレス問題について

 ちょっとネットから離れ*1、帰ってからまとめてあちこち覗いたなかで特に気になったのは「大阪長居公園でのホームレス排除」の件でした。(demianさんの「Demilog@はてな 02/06の記事」を取っ掛かりにさせていただきました)
 これはいろいろなことを考えさせてくれるものでした。思ったことの中から幾つか書き留めておきたいと思います。

決め付け

 公園に住んでいる人たち(ホームレス、野外生活者)を危ない人たちと決め付けるのは良くないという話と、彼らをそう見てしまう視線にも一定の理由があろうという話が絡んでいた局面があったように思います。「公園居住者を怖い人たちだと決め付ける」のは良くないという考え方は、同時に「公園居住者を可哀相な(あるいは善良な)弱者とのみ捉える」ことをも否定するのでは?と私には思えます。前者の背景を否定する背景に後者があるように思われてしまうというのは僻目でしょうか。
 身も蓋も無く言えば、人それぞれということでしかないということになるかもしれません。一人一人が違う人間である以上、怖い怖くないの判断も一人一人を見なければすべて予断だということです。ただそれですべての判断を保留することなど現実的でないでしょうし、私はあるカテゴリーに対する「暫定的な決め付け(といいますか認識ですね)」を否定しきることはできないだろうなと考える立場です。


 この手の話になりますと「〜という人たちは○○である」と(ネガティブに?)捉えること自体を問題視する議論が出てくるわけですが、これは一応「論」としては成り立っていても、忠実にその言に従うことがほとんど無理なのではないかと思うことしばしです。ある範疇を以ってグルーピングして語る・考えることをほとんどいけないとしますと、それが人間に関わることに限定されたとしてもまともな思考を組み立てるのは難しいのではないでしょうか?


 その考えに固執する姿勢でなく柔軟に、またあまり他人に押し付けない範囲で「暫定的な認識」を持つということしかないように私には思えます。それがポジティブな把握かネガティブな把握かというところで「認識の善し悪し」を分けるなどできないことですし、それを完全に排すなど無理です。一部宗教者の言説では見かけないこともありませんが、その境地に私を含む多数の人が届くとも思えないですね。
 ある種思い込みとか偏見とかは避けがたいものと私は諦観する方です。しかしながらそれが変わり得る余地を残しておくとか、あるいは思っていたことと違う例でも見れば素直に考え直すとか、そういう方向でミスリーディングの総体を減らしていくしかないかなと。また「知らない」が故の偏見を見かけたときに、これこれこういうこともありますよと働きかけをこまめにするとかができることのほとんどではないかと考えるのです。


 結局、「こう考えるな」とか「こうこう考えるのは誤りだ」という方向で人を動かす・動かそうとするのは(あまり良いことではないし)難しいことだと思うんですね。

見方の違い

 公園に住んでいる人たちの立場の捉えかたですが、これはいくつかのところで言われていたように「震災時の避難民が公園に住んだ」という比喩で考えるのが妥当かなと私にも思えるところがあります。ですから「排除する」態度というものがあるのなら、それはよほどのことが無い限り正当化し難いという感想は持ちますし、今回のケースの場合なども行政側に義はないように見えました。


 ただ上記比喩は比較的短いスパンでの話に該当するものだという限定も付くのではないかとも考えます。排除に共感的な(差別的な?)意見に怒り心頭という方もおられましたが、ここらへんの話の齟齬は「短期的に、目前の排除の問題」として見るか「長期的に、公園で居住することの問題」として見るかというところに在るのではないでしょうか。


 短期的には、緊急避難で逃げ込んだ人をろくな手当てもなしに放り出すのは不正義だと私も思います。そこに地震・火災などの見える被害が無かったとしても、それは想像力で補える範囲のことじゃないかとも。
 ただそれがいつまで続くのかということになりますと、誰もちゃんとした見通しは持てない状況でしょう。そうなればここには公有地に居住することの是非などという側面もでてくるはずです。これに敏感なのは自分で自分の勝手を抑えて生きていると思う方々でしょうし、そちら側からはホームレスが勝手である・甘えているという具合にも見えるのではないでしょうか。


 で、中長期の解決策となりますとこれがとても難しいです。そこに社会のラディカルな変革を主張される方もいるとは思いますが、私はどんな社会でも必ずメイン・ストリームから外れた人々を生み出すであろうというペシミスティックなことを考えてしまう方ですし、単純に包摂し切るという方向で解決が図れるとするのには疑問を抱くのです…。

平等視

 仏教の出家者は、もともと乞食(こつじき)をして暮らすことを義務付けられていました。そして衣食住を喜捨によって賄っても、だれもそれを「ずるい」とは思いもよらなかったはずです。他の諸宗教にもこうした在り方をする宗教者はいましたし、彼らは世を捨てることによってその存在の意味を変え「同じ列に並んでいる者」ではなくなっていたため嫉視を免れていたということでもありましょう。
 ですがこのように社会(システム)に人のカテゴリーとしての意味的差異が設けられるというケースは、今の私たちに身近な社会では差別(的扱い)の源泉として忌避されるものとなっています。


 ホームレスの人たちへの批難、ずるいとか義務を果たしていないとかいう類のものは、実は差別的というより多分に平等志向的な考えを示しているんじゃないかと思えてなりません。自分が果たしている義務(的行動)に対して、それを充分果たしていない(と見える)者が何らかの成果を勝ち取っている(ように見える)場合、それは不平等だという主張がここに込められているのではないでしょうか? まあそれはどこか嫉視でもあり(最初から同じ土俵にいないと思える相手に対して、そう人は「義務」だのと四角張ったもの言いはしないものでしょう。そしてどちらかというと自分より「得してる」と、そう羨ましく思えるような相手に対してこういう理屈っぽい難じ方をするものではないかと思えるのです)、完全に理屈として正しいというようには見えませんが、その気分的なものはどこか了解できる気はします。


 公園や川岸に住まう彼らは決して「世捨て人」ではないでしょうね。彼らがどういう状況になっても自分のテリトリーを確保しようとし、プライバシーをできるだけ守ろうとし、生活を良くしようとするかというところを伺い見れば、それは他と変わらぬ一般の生の有り方ですしそういう自己認識なのではないかと拝察します。(メディアで採り上げるのは変わった人たちだけなのかもしれませんが)犬を飼ったり、電気を引いたり、テレビ・ラジオの類を使えるようにしていたりする方々の姿も見せていただいたことがあります。それは断固として社会から決別した生き方ではないでしょうし、それゆえ「私たちと同じ」であり、その中で最低の生活を強いられている「弱き者」として象徴的に扱われることがある(扱う人たちがいる)のだと思います。


 でもその「同じ在り方」ゆえに「特別扱い」について問題視されているとすれば、そちら方面を説得するためには(一時的にも)異なった存在として認識してもらうことを考慮してみる方向も考えられるのではないかと…。 彼らに「聖痕」をつけよというわけではもちろんありません。でも一時的にせよそこらへんの在り方の変容があってこそ、(たとえば被災者とほとんど同様の)「特別扱い」が文句なく可能になるんじゃないかという気がするんです。
 ご本人たちが「特別扱い」はしていらんというならば話は別かもしれないのですが、何か解決のための糸口がそういう過去のシステム(の知恵)にも見いだせないかなと思ったりしました。


 ちょっと全部書ききれませんので、まずはこのぐらいで。

*1:実家方面の病院に参りました。帰る一日、二日前から覗けることは覗けたのですが