恵まれし者

資格

 テレビ東京で放映している深夜アニメで『金色のコルダ』(公式サイト)というものがあります。元はLaLa連載だったと思いますが、主人公の女子高生(日野香穂子)を中心にした「クラシック音楽」「逆ハーレム」アニメと思えば当たらずと言えども遠からず(笑)五人ぐらいのタイプの違った美形男子高生(それぞれ違う楽器を奏でる)が、日野さんの周囲で家庭環境と葛藤したり、日野さんを意識したり鞘当てしたり、そして音楽に打ち込んで学内コンサートを競い合ったり…
 そういうものを何故ぼちぼち観たりしているかと言えば(笑)、もう一つこの作品の基本構造が『ヒカルの碁』みたいだったからです。主人公の日野香穂子はごく普通の女子でしたが、ただ一つ他の誰にも見えない「(音楽の)妖精」を見る力がありました。そしてその妖精リリは彼女に「魔法のバイオリン」を託します。それはバイオリンなど弾いたことがない者にでも心のままに演奏させてくれる楽器で、そのバイオリンを使って学内コンサートに出場し、音楽を愛する心を皆に広めて欲しい…ということだったはず。
 何の取柄もない若者(>感情移入し易そうなキャラ)のところに突然超自然的存在が現れ、人々に賞賛されるような才能を与えてくれる。ただ若者自身は徐々に「自分の力で」賞賛を勝ち取らなければと思うようになる。そういう成長物語に見えるんです。


 さて『金色のコルダ』今はどこらへんかと申しますと、
 「私にはバイオリンを愛する資格なんてない」
 という具合に、(うまく弾きたいという)劣等感の裏返しの心のあせりから魔法のバイオリンを壊してしまった日野さんが、落ち込み、バイオリンから離れようとし、コンサートを辞退する旨を先生に伝えた…あたりです。(まあここから再び盛り上がって、四回目の最後のコンサートでクライマックスということになるでしょうね)
 前々回では、バイオリンから去ろうとする日野さんを止めようとした土浦君(サッカー少年。ピアノ。体育会系細身の美形)もまた
 「俺には日野を止める資格なんてない…」
 とか言う始末。


 わりにこの種のもの言いはよく聞かれるものだと思います。むしろ一部では陳腐化しているとも感じるほどです。
 「資格」っていったい何でしょう。
 誰がそれを決めるのか…自分自身でしかないはずです。自分で作った罠に自分が陥ってもがいているように見えます。
 内省的で倫理的なのは良いのですが、それはどこか自己嫌悪的な詐術につながり、結果としては自分と自分の直面しなければならない問題との間に壁を作るだけの意味しかもたないのではないでしょうか?

 自己嫌悪というのは一見良心的な装いがありますが、その実、単なる欺瞞で建設的ではないものになってしまいがちです。自分がやってしまった行為が恥ずかしくて、自分でそんなことをやった自分が嫌いで、それで自己嫌悪となるわけですが、結局それはいかにも第三者的視点で自分を糾弾するだけで、むしろ反省につながらないのではないかと…。

 そこで行われることは、自分を嫌う自分というものを生み出し、その部分にすべての自分(自尊心)を仮託して、「本当の自分」はこんな恥ずかしいことをする自分とは違うんだと自分をごまかすことではないでしょうか。


 逆に自分に「資格」があると信じることができたとしても、たとえばその相手のことを心から大事に思っているなどの恋愛のケースを考えてみればその相手・対象の人にそういう「資格」が顧慮されるかは全くの疑問で、自分で独り決めした「資格」などには大抵まったく関係なくうまくいったりいかなかったりするわけです。(自分には資格があるんだからと無理押しすれば、すなわちそれはただのストーカーかと…)
 つまりこの「資格」云々というのは、本当に一人相撲のものだなあと思うんです。
 そして自分でその無意味さに気付きさえすれば、それは魔法のように一瞬で消え去るものだと。


 まあ陳腐化した「物語」などでは、大抵その無意味さに友人とかが気付かせてくれる「改心のエピソード」なんかが入るわけですが、自己嫌悪とか自省の美名の下に自分で壁つくってどーすると、最初からそういうものはよしなさいと、「歳を取って汚れてしまった」私なんかは思ってしまうんですけど…。

卑下

 昨日の話の続きですが、ホームレス問題を語る方で自分の恵まれた?在り方をとても卑下するような方々も散見します。そんな態度がちょっと上記「資格」云々の話につながっても見えたり…。あんたはナロードニキかっていう感じがちょっとあります。


 恵まれているか否かというのは多分に相対的な話で、さらに言えば恵まれていること自体は何もそのまま倫理的に劣ったこととされるものではないでしょう。確かに生命の危機にさらされているかどうかというラインをそこに置けばそれには重みがありますが、にしても「生命の危険にさらされていない者」が「危機的状況にある者」の話をしてはいけないなどという法はありません。もちろん資格に欠けるとか欠けないとかいうこともないはず。


 もしかしたら、恵まれた立ち位置にあると自認するその人たちがそこで躊躇してしまうのは、そのホームレスの人たちの「代弁者」のようにして語ろうとしてしまうからかもしれませんね。(確かに代弁するとなるとそのためらいは理解できます)
 もちろん当事者でなければわからない細々はあるでしょうが、問題の捉え方や語り方には様々なアプローチがあってよいはずです。共感や理解をできるだけ求めようという態度はわかりますが、あまり立ち位置の違いを強調し過ぎますと、知らないうちに当事者さんたちとの間に壁を設けることになっているんじゃないかとも思えます。昨日ちょっと触れたように完全に違う存在として認識してもらおうというのならこれもありでしょうが、むしろ連続性というか「いつあなたも住処を失うかもしれないよ」という方向の強調ならば、これは逆向きでしょう。


 共感的アプローチで問題にあたりたいと考えるとしても、そこに自己卑下は必須ではないのです。またその方法だけが問題へのアプローチではないということも頭に入れておくべきだと思います。


 あと少し蛇足を書きますと、このいささか過剰なくらいの「恵まれた立場卑下」は、「お前なんかにはわからない」「あんたなんかには理解できない」云々という弱き者・被害者の側からの強い言葉をどこかに想定して、それに先にこたえようとしてしまっている。そんな側面もあるような気がします。そういった糾弾の言葉自体、私にはコミュニケーション拒否という形の一種の修辞に思えてしまうのですが…。