騙されたら負けかなと思っている?


 私も誰かに騙されるというのは不快には思いますが、「騙される」ということに対して少々過剰な反応が多いのではないでしょうか? それは「対宗教」「対似非科学」「対アメリカ」「対中国」「対権力」「対マスメディア」…さまざまな局面で見られるように感じます。一見その立場が正反対のようでいて、実は「騙されないぞ」と過剰に構えているという点では同じような人たちが多くいるなあと。
 これはその個別の問題、忌避の対象云々ではないところに何か同根のものがあると考えた方が面白いのではないかと思えてきています。


 匿名ダイアリーでこういう記事がありました。
 ■日本人はなぜ「宗教に走ったら負けかなと思ってる」のか

 日本人に限った話じゃないのかもしれないけど、宗教という名前で一般的に連想されるのが、日常的な生活空間とは隔絶した“異界”の何かだった場合には、そういうことが起きやすいんじゃないかと思う。


 逆に、実際にはまっている最中の人にとっては、そここそが自分の日常的な生活空間そのものだから、別にそれを“異界”とは感じない。クリスチャンにとってのキリスト教ムスリムにとってのイスラムがこれ。つまり「生活と宗教は切り離せないものだ」という日常生活イメージを持っている場合。形式的に見れば異常でもなんでもない。

じゃあ、増田やってる君らも、周りから見たらそう思われてるんじゃないの?
(http://anond.hatelabo.jp/20070216192946

 増田を“異界”と思う人から見れば、まさしくその通りだと思う。


 ネットから見えるある側面、確かに「宗教に走ったら負けかなと思ってる」ような人は少なからずいるように感じます(それが「日本人〜」と敷衍できるかどうかは別にして)。でもそれはこと宗教に限った話ではないでしょう。
 言葉を換えて言いますとそこで問題になっているのは「騙されている」かどうかであって、上記記事で言われているような“異界”がどうこういう話は焦点に置かれていないと感じるのです。
 先の記事は、日常生活の中に聖性と出会うポイントをほとんど感じないという方が書かれたのでしょうし、それで「宗教」を受容する者とそうでない者の違いを考えてみた時に(クリスチャンやムスリムと自分たちとの違いは何かと考えて)、仮説として「日常生活における聖」の有無で区別できるのではないかとされたのでしょう。


 でもこの記事につけられたトラックバックの中でも示唆されていますが、よくよく考えてみると日本人の生活から聖なるものと関わるポイントが払拭されているわけではもちろんありません。たとえ普段の生活で特定の宗派・教義と全く無縁であったとしても、漠然と死後のことを思うときなどを含めて、私たちの生は聖の完全否定などしていないのです。
 初詣に行き、葬式をあげる人たちが「宗教にはまっている」と揶揄されないのは、ひとえにそれが「騙されていない」ように見えるからであって(もちろん神社やお寺が騙して不正利得を…と考える方も稀にはいるかもしれませんが)、そこに“異界”との関わりの有無が問われているわけではないと私は考えます。


 「騙される」ということに対しての過剰な反応は、裏返してみると「信じる」ものがない不安の現われなのかもしれません。あらゆるグランド・セオリーが疑問を呈される可能性の中にいる昨今、人は寄りかかるものを失い(それはそれで評価できるところもありますが)「騙されまい」という形で身構えなければ不安なのではないでしょうか?


 何かに身を任せられたらどんなに楽だろうと思いつつ、それは何か自分の自由・自尊を奪われることにも見えてしまい、結果として「騙されないぞ。騙されないぞ」とそういう不自由の中に籠ってしまっている。それはそれでまた不幸なことなのではないかと思うのです。