空気を読む
昨日アスペルガー障害について触れましたが、この語で思い出すのがmakaronisan@たまごまごごはんさんの■[科学][社会]〜空気を読むことと、人の個性〜アスペルガー症候群についてしらべてみた という1月の記事です。これが最初にアスペルガーに関心を持たせてくださったというところも(実は)あります。
そしてこの記事での話題の取り上げ方が「空気を読む」ということに関わっていまして、どうしてもこの問題を思い出すとき私の方でも「空気を読む」とか「読まない」「読めない」ということが一緒に頭に浮かんでくるのです。そこらへんについて少し…
私自身、誰彼を「空気の読めない人」だなと思ってしまったことはあります(これからもあるでしょう)。そういう時の「空気の読めない人」というのは「自分勝手な人」という語に置き換えられるものだったと考えています。批難する側からすれば、そのクレームのポイントは自分勝手とか利己的かどうかというところに置かれているのではないかと。
これに対して「空気読め」と強いられることについての反批判・抗議の声は、「集団に協調することを強いられてる」とか「個々人の思いを無視している」とかいった方向であげられているように感じます。これはこれで納得もできるものなのですが、言ってみればこの両者話がかみ合っていないというように見えますね。
簡略化しますと
空気を読めない人A …自分勝手と批判される人 空気を読めない人B …周囲に合わせるのが苦手な人 空気を読めという人A …もっと他人のことを考えろという人 空気を読めという人B …(何でも)集団にあわせろという人
すくなく見積もってもここには上記四分類が登場しているんじゃないかと思えます。
それぞれのA・Bは重なる部分も持つでしょうが重ならない部分も少なからずある、というのがポイントです。
「空気を読め」という類の批判をする人は、「空気を読めない人A」を批判しているということで自分の行為を正当化できているのでしょう。また「空気を読めと言うな」という人の反批判の対象は「空気を読めという人B」に向けられていて、その分では批判は正当という具合に見えます。
「空気を読め」と考える人の多くが自分を「空気を読めという人A」だと思っているとしたら、「空気を読めと言うな」という反批判は届かないでしょう。また「空気を読め」と言われた人が自分を「空気を読めない人B」だと認識しているならば、「空気を読め」と言った側の批判はきちんと受け取られていないのです。
実際には、他者の自分勝手を批判しつつもむやみに集団に同調せよなどとは言わない(思わない)人も多く存在すると思いますし、周囲に合わせるのが苦手なゆえに他人への思いやりに欠けると思われがち(なだけ)な人も少なくないのだと思います。アスペルガー障害というもののデメリットは後者において顕著なのでしょう。
「空気を読む・読まない」の話がそれなりに盛り上がるのは、最近ではやはりネット上でのかかわりが増えたことに起因するでしょう。なにせ関わる相手の背景がわからない・読みにくいことがしょっちゅうあるからです。時間さえかければたとえハンドルだけでも相手のことはわかってくるのですが、それこそ毎日のように新しく場に加わったり出て行ったりする人はいますから…
たとえば掲示板をちょっと覗いてみて、勇を鼓して何か書き込んでみたときにいきなり「空気読め」みたいに言われるのは実に痛いです。そういう時、声をかける方が少し思いやりを持つ(たとえば過去ログが膨大だから、それを全部読んでから質問しろというのは言えないなあと思うとか)、かけられる方も少し努力をする(少なくともちょっと前からのログは読んでから書き込むとか)、そういう歩み寄りがあればと思うんです。
もともと「空気を読む」という語の曖昧さからいろいろな行き違いはあると考えますが、この言葉を無くせとかは思いません。強い言葉にもなりますし、少し使うのは控えめに…とは思いますけどね。