話し合いが成り立たない時

 しょうぶは勝ち負けではありませんっ!
 (ある小学校教師の言葉)

 ていうか勝負はやっぱり勝ち負けでしょう…という話はおいといて、話し合いっていうものを意見の相違時における究極にして唯一の解決手段とするのは無理ですね。他者が話し合いに応じようとしない時、往々にして話すことの無力さを感じます。


 うちの近所の郵便局は入り口近くの駐車スペースが8台(うち1台分は障碍者車両用)しかなく、地方の本局だったりしますから大抵そこは車でいっぱいです。局の裏には十数台とめる駐車場もあるのですが、かなりの人は障碍者車両スペースどころか歩道にまで駐車したりしています。自転車等通行可の広い歩道も、3ナンバーの車が占有すれば人一人通るのでせいぜい。人がすれ違うとかは無理ですし自転車も車道に出て通らざるを得ません。そういうのを見かけた時に声を掛けても、無視されるか悪態を吐かれるか…(あきらめずに声は掛けてますけど)。


 たとえば私が筋骨隆々の眼光鋭い(もしくは関西弁の筋者風の、それとか警察官のユニフォームを着た)人間であったならば、そういう言外の威圧で「話し合い」に応じさせることはできるかもしれません。でもそれは話し合い自体の有力さを語るものではないですね。むしろ「話し合い」それだけの無力さを言うような気がします。


 あるいはこういうブログ・日記のコメント欄などでも、やたら勝ち負けにこだわったもの言いをされる方が来られた時や、煽り・荒しの類の人が来た時など、話し合いが万能だとはとても思えません。あくまで話し合いが通用するのは、相手が聞く耳を持っている時に限られるでしょう。


 ただの話し合いより進めた「対話」はもっと難しいです。これもまた聞く耳と申しますかお互いが自分の考えを変え得る余地を持っているのが前提ですし、なおかつそれに喜びさえ感じるられるという稀有なところにあるように思います。
 そういう「対話」に比べれば、議論の勝ち負けなど(アドレナリンは多量に出るかもですが)たいした意味も無いように感じる今日この頃です。外交の話題でもちょっと、とも思いましたが、書いてきてそれも無味なものに思えてきましたので省略です(笑)