教育について一家言持った素人が多すぎるという意見について

 匿名ダイアリー ■教育についてウンチクたれる中年の方々にうんざりする

数学科のひとに、数学でケンカしたいと思いますか?法学部の人に、日本の法律についてウンチクたれたいと思いますか?

……なんで教育学部の人には、教育に対してケンカを売ろうとする人が多いのだろう、と思います。居酒屋レベルでないところで教育についてウンチク垂れたいなら、せめて教育六法読んでから出直して来い。社会教育と学校教育と生涯教育の違いくらい自分で定義できるようになってから文句を言え。

教育学部にいると、最近の教育に対する不平不満をなぜか「分かってないお前らに俺が教育してやる」といわんばかりの上から目線で、まるでそれが世界の常識のように語る人がいるのでうんざりします。

私達が勉強しているのは、教育学、なので、そういう話がしたいなら学問的なルールの上でお願いします。

 まあ大筋ではわかりますけど、少なくとも題名はかなりミスリーディング。それに教育学の特殊性というのもあるかもしれません。そして、何だかんだ話題になること自体は歓迎しなければ…話を聞いてもらえるチャンスにもなっているんだから。

教育学

 わりに最近、岩波の『思想』の文章の一部を載せた、広田照幸氏による「教育学の混迷」(リンク)という文を読ませていただきました。教育学の側からの現状に対する真摯な反省の弁(の一部)だと思います。お読みになった方も多いのではないでしょうか。

 教育学が、他の学問分野との間で共有する言葉を失うようになってから久しい。1950-60年代には、この『思想』誌でも教育学のアクチュアルな課題を原理的に論じた論考がよく掲載されたが、その後はほとんどみかけなくなった。教育学関係の学会は今では70以上もあるというし、教育学関係の雑誌もたくさんの種類が出ている。だが、社会科学・人文科学の一分野として考えると、教育学は閉鎖的で、その水準もはなはだ心寒いものがある。どうしてこうなってしまったのだろうか。

 広田氏は教育社会学・社会史専攻の日本大学文理学部教育学科教授東京大学大学院教育学研究科教授で、若手(あるいは中堅 1959年生)の教育学の方です。(コメントでご指摘いただきましたので、御所属の訂正をいたしました)


 氏は「今の教育学が全体として、冷戦期に背負い込んでしまった学問的負債の清算に苦しんでいる」とした上で、それは「政策決定過程から外れていき、与党の政策策定過程において影響力を(持たなくなった)」経緯と「政治的(運動的)効果と学問的意義との峻別が不十分だった」傾向の責任ではないかとされています。


 そしてまた氏は、従来の教育学の「政治的な色合いを表面から消し、経済と教育との関わりを拒否する形で、教育学の中心的な理論は組み立てられる…教育学固有の理論から基盤とする価値を導出し、そこから現実の教育政策や教育制度を批判する、というやり方」をも反省し、そういうやり方の帰結として
「他の分野との交流が不活発」
「実証的な分析能力が十分発展しない」
「1980-90年代のイデオロギー状況の変化によって…それまでの足場が危機になった時、それを組み替える材料や視点の乏しさに苦労することになった」
などなどの諸点を、教育学の背負い込んでしまった負債となさっているのです。


 端的に言えば、実証的かつ実践的な学問であることを必要とされていたはずの教育学が、実社会から離れてしまい、そちらからの信頼を失い、かつ新しい学問としての基盤を確立するのに苦労している…ということだと読めました。
 そういう状況下で

 居酒屋レベルでないところで教育についてウンチク垂れたいなら、せめて教育六法読んでから出直して来い。社会教育と学校教育と生涯教育の違いくらい自分で定義できるようになってから文句を言え。
 …
 私達が勉強しているのは、教育学、なので、そういう話がしたいなら学問的なルールの上でお願いします。

 と叫んでみても一般の理解を得るのはなかなか難しいですし、なにより「教育学」がどんどん孤立化して行って、その未来は暗そう…というふうに見えるだけではないでしょうか?

チャンス

 まず「教育」に関しては誰もが(主に受ける側として)経験していて、しかもかなりの人が自分の子弟を教育する側としても考えたことがある、という特殊な状況を考えてみなければならないでしょう。多くの人が教育に関して「一家言」あるのはむしろ当然で、その中で素人さんとは違うというところを見せるのはなかなか大変です。さらに言えば「教育の現場」からちょっと離れた「教育学」なんていうところでですし。
 そしてそれは何も年齢によって変わるようなものではなく「中年の方」に限定して文句をつけるのはひどい誤りです。(まあ妙に蘊蓄を足れたり、他分野に厚顔にもの言いするのがそこらへんに多いのは事実かもしれませんが 笑*1


 似たようなケースはどこにでもあって、たとえば倫理学でも一般の人が「倫理」について考えたことがあるのは当たり前。宗教学でも「信者さん」はあちこちに多くいて、哲学でも「広義の哲学」はもともと誰が考えても語ってもいいものですから、盛んに専門外の方々の声などは出てくるものだと思います。*2


 こういう状況下でジャーゴンを多用するようになる(なってしまう)、というのはよくあることです。もちろん厳密な言葉の使い方を目指してそれが多くなってしまうというのはある程度仕方がないことなのですが、同業者に語るところでない場所であまりそういうのを見ますと、素人をびびらせようとやっているように見えてしまったりすることもあります。


 さて最初の記事の方のように「学問的なルール」を主張してしまうのは、「教育」と「教育学」の断絶を際立たせることにもなりかねません。それはそれで業界内でやってればいいんだからとお思いなら仕方がありませんが、私には少々もったいないことのようにも見えます。
 教育(学)に口を挟む人が多くいるということは、それに関心を持ってくださる方々が多くいるということです。そういう状況なのですからその分野の専門家であるということを言うならば、何か聞けるだろうと耳を貸してくれる人も多くいるはずなのです。
 チャンスです。
 そしてそこで本当に実のあることが言えたならば、心ある「素人」の方々は矛をおさめ、それどころか感心して「教育学」への不信は消え、さすが専門家は違うと舌を巻いてくれるでしょう。万々歳です。
 もしそれができないのであれば、最初から「教育学」の看板を上げずに居酒屋談義をしていればいいのです。下手をうった時はどんどん「教育学」への不信が募って評判を下げてしまうのですから…
 とまで言うのは言い過ぎでしょうか?

追記
 部分的に同じような趣旨で、よりよさげな匿名ダイアリーの最初の記事への応答がありました
 ■[教育]一般人と語り合えない教育学は
 未読の方はどうぞ。面白くてなかなかです。

*1:含む 私・この文章

*2:ちょっとそれでも思想系の人が気を悪くするのは、他の専門分野(特に理系あたり)の人で歳を取ったお偉いさんがしきりに「哲学」を語ったり、同じ専門のご老体が突然「東洋回帰」してみせたりするところだったり…笑 ま、あくまで噂の域を越えるものではありませんが…