偽善

 「偽善」という言葉を否定的な意味で誰かに発するのは、「善なる行為には善なる意志が働いていなければならない」という暗黙の前提に立った行為だと考えます。
 自意識過剰な若いときには特にそうでしたが、結構私は自分で自分にこの言葉をつきつけ、勝手に躓いていました。だって自分の心の中を覗いても、まっさらな善なる意志など見つからないと思えたからです。それで何か「善い(善さげな)行為」をしようとするたびに自分がどんどん偽善者になるような気がして、そういう行為自体ができないということもよくありました。


 ただその後、結局「偽善」というのは「善」をやってしまっているからそれはそれでいいんだと思えるようにもなり、むしろ「心が善でなければどういう行為も善にはならない」という考え方が勘違い・間違い(・あるいは嘘)に見えてきて、かなり気持ちが楽になりました。そして何と言っても相手の心を勝手に邪推しない限り「偽善」という決め付けはできないということにも気付き、誰かに対してこの語を使うことは止めました。

 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常なり。いたりて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見てこれを憎む。「おほきなる利を得んがために、少しきの利をうけず。偽りかざりて、名を立てんとす」とそしる。おのれが心にたがへるによりて、この嘲をなすにて知りぬ。この人は下愚の性うつるべからず、偽りて小利をも辞すべからず。かりにも賢を学ぶべからず。


 狂人のまねとて、大路を走らば、則ち狂人なり。悪人のまねとて、人を殺さば悪人なり。驥を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを賢といふべし。


徒然草』(第八十五段)

 私にとって古典が心に響く、そういう一つの例でした。