道徳教育論議の不幸な過去

 現在の道徳教育論議が、今あるべきその内実を語ることに限定されないのは(私はこれが一番必要だと思うのですが)、確かに過去におけるその議論の経緯に足を取られているからでしょう。
 次に引かせていただきますのは、貝塚茂樹氏(あの東洋史の方ではなく、武蔵野大におられる教育学の方)が学位論文で出された、”占領下における道徳教育問題の歴史的展開を再検討することで、戦後教育における道徳教育問題の意義と課題について考察した”論文からのものです。
 「戦後教育改革期における道徳教育問題の史的展開に関する研究(pdf)

 ところで、これまでの戦後教育史像とは、果たしてどのようなものとして描けるのであろうか。たとえば、羽田はそれを次のように整理する。


 すなわち戦後改革は、ポツダム宣言及びアメリカの世界戦略にもとづく非軍事化・民主化の一環として、占領軍の強力な指導と指令のもと、教育刷新委員会に結集した日本側知識人と文部省とのトライアングルによって推進され、その改革プランは、米国対日教育使節団・占領軍がもたらしたアメリカモデルと、昭和期における学制改革論に依拠していた。改革は一九四九年夏頃からの「逆コース」と、占領改革の見直しによる一九五〇年代の再改革によって修正を受け、講和独立後の教育反動化によって改革の空洞化が進展した。そして、六〇年代に入って能力主義教育政策により、教育の経済への従属化が進み、教育荒廃の原因となってきた、というのが大筋である。

こうした戦後教育史像の定式化した構図には、国家の教育政策に抵抗して、「反動化」を阻止しようとする「国民」の存在が特徴となっている。つまり、戦後教育史叙述では「国家の教育政策VS国民の教育」という分析の枠組みが所与の前提となっていたといえるであろう。
(pp.7-8 文中引用の羽田氏のまとめは、羽田貴史「戦後教育史像の再構成」(藤田英典他編『教育学年報6 教育史像の再構築』所収、世織書房、1997)p.217 より。 強調引用者)

 議論の当否はお読みになって判断していただくしかないのですが、私は説得力を感じております。この貝塚氏の労作から見えてくるのは、本当に「不幸な」としか言いようのない道徳教育論議の過去であり、結局それはどのサイドからも別の目的のための「道具」としてしか見てもらえなかった悲劇であるように思われるのです。

 …道徳教育史については、少なくとも以下の三つの傾向を指摘することができる。


 第一は、戦後の道徳教育の歴史的な展開を対象として研究したものがほとんどないことである。したがって、前述したように、先行研究として取り上げることのできるものは、基本的には戦後教育史の通史的な叙述の中で解消されるか、または、社会科成立史の観点から位置づけられてきたといえる。たとえば、戦後の道徳教育の出発点である「公民教育構想」は、社会科成立史の範疇で扱われることが一般的であり、占領後期の道徳教育問題は、再軍備問題に代表される政治的動向との強い関わりの中で、教育論としてよりも政治論の枠組の中で論じられてきた。
 第二は、上記のような戦後道徳教育史研究の状況を反映して、道徳教育に関わる基礎的な資料の蓄積が著しく立ち遅れてきたことである。しかもここでは、占領史の研究動向を踏まえた研究は、これまでほとんど行なわれてこなかった。
 また第三には、道徳教育問題が、政治的かつイデオロギー対立の構図の中で捉えられて強調される傾向が強く、先にも述べたように、「国家の教育政策VS国民の教育」という二項対立的な分析の枠組が前提となっていることである
 (p.11 強調引用者)


 このような議論の経緯に拘泥せざるを得ない「専門家」の方々にも同情申し上げますが、こういう見方で「道徳教育」の足を引っ張り合っていても不毛でしょう。「国家」と「国民」の対立図式にしても、私は現時点で見直しが必要だと考えています。

 フランスの1848年憲法は、民主主義を自由主義から解放する契機を体現している。そこには、「国家的支配からの自由=民主主義」という保守的な図式から、「民主主義=国家的支配への国民参加」という図式への移行が見受けられるのである。…なおこの場合、全国民が参加して作る官や公こそが、民主主義の担い手となるのである(p.144 強調引用者)

 これは以前の日記「愛国心とかネオ・リベラリズムとか(書評)」で採り上げた、薬師院仁志氏の『日本とフランス 二つの民主主義 不平等か不自由か』からの引用です。 私にはここに述べられている見方、国家とは国民が作るものという考え方がしっくり感じられておりますし、それゆえ妙な二項対立に拘り過ぎることなく「道徳教育」がどうあるべきかを考えましょうと、そう言いたいんです。


 ここで道徳は単純に「morality」の訳語として、「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体*1」として考えています。それが「個人の内面的なもの」であったとしても、もともとその内面が一切外的影響を受けずに成立することはありません。「自立的市民」というものだって、あくまでそれは誰かに教えられた・学んだ結果作られるものですから、誰も責任を取らない野放図な状態でそこに至るものではないでしょう。国は自分たちが作るものという見方で、不完全な子供をそこにもっていくために大人が考えるのは当たり前に思えるのですが…


 蛇足ですしある意味「藁人形」かもしれませんが一言。経済的側面で新自由主義とやらを批判し「国の責任・セーフティーネット」を求める当の方々に、教育的側面では「国の介入の不当性」を語られる方が結構重なっているように見えるのは不思議です。その方々には「国家」はどう見えているのでしょう? ある種のねじれがあるように見えますね。

*1:広辞苑』第二版