ケータイとかネットとか

昔、みんながいたところ。


 煎じ詰めるとケータイ文化に対する違和感のようなものかも。
 私が受け取った通りなら(留保)これはかなりわかるような気がします。今年母が入院するまで、私は頑なにケータイを持つのを避けていました。
 だって誰かと話している最中に、その人のケータイが鳴って話を遮られるのはすごくいやじゃないですか? そしてもしその人が「後でね」とか言ってケータイを切ったとしても、それで話に戻ってきたとしても、ふっとこちらの気持が醒めてしまっているのはいやじゃないですか? 人にそんな思いをさせるのはいやですし、もちろん自分でもそうです。だから買わないでいたら、ほとんど持っていないのは私だけ状態に近くなってしまっていました。それでも良かったんですけど。


 もちろんそんなのは昔の「家(いえ)電」の時代でもあった話かもしれませんが、何か違う。道端でところ構わずケータイをかけている人を見たり、歩きながらメールを打っている人をみたりするたび、どこかおかしいと感じていました。実はいまだにそうだったり…

――この中の、誰にメールしたらいいのか分からない。誰にメールしたいのかも分からない。返事が返ってきたらどうしたらいいのかも、返ってこなかったらどうしたらいいのかも分からない。この中の誰でもない、私はあの場所にメールしたい。


「今、誰かいますか?」

 ⇒「寂しい」という検索語で結び付く人々HotWired

 何百ものさまよえる魂がGoogleに自分の気持ちを「寂しい」(I am lonely)という言葉で打ち込んだ結果、ネット上にかりそめの自助コミュニティーが誕生した。


 自分の気持ちを検索エンジンに吐露したことで検索者たちが導かれたのは、『ムービーコーデック・コム』の「誰か寂しい私とお話しませんか?」(i am lonely will anyone speak to me)と題されたページだった。ムービーコーデック・コムは本来、デジタルビデオの愛好者向けのフォーラムだ。


 1年近く前、名も知れぬ孤独な人物が自身の孤独感をつづったスレッドを立ち上げたのが始まりだった。そして、Googleの検索システムの後押しにより、このフォーラムは寂しくてどうしようもない気持ちを打ち明ける人たちの避難所となった。彼らはこのサイトを自分たちのものにして、1500件近くの投稿と70ページにもおよぶ気の滅入る話を書きつづっている。

 ネットがこの匿名の方の寂しさを補完すると言えるのでしょうか?

 寂しさのあまりこのフォーラムにやってきた人々の多くが、1人ぼっちなのは自分1人だけではないと知り、慰めを感じている。

 ある投稿者は「Googleに『寂しい』と打ち込む人がこんなにもいるのは悲しいことだ。しかし幸いにも、今なら何とかできる見込みがある。悲しくて本当に寂しければ、私に連絡をくれればいい。そうすれば、互いの寂しさが紛れるかもしれない」と記している。