小さい時から

 私は物心ついたころから単純に人を信じる子供ではありませんでした。それは別に何か自分に確信があって他の人を信じないというものではなく、「自分の思うようにならない」「自分の予想を裏切る」のが他の人だと感じていたのです。
 今機嫌よく笑っていた人が次の瞬間不機嫌になり突然自分に対して辛くあたっても驚かないといいますか、そういう自分ではわからないところを持つのが他の人だと考えていたと憶えています。特別にそれで寂しいとかいうのでもないんですよ。信じきっていない分だけ失望も少なく、合わせるのだけは長けていましたし、うまくやれている時に楽しければそれでいいんだと思っていました。
 ただとても微妙なものですが、現実に対してある種の距離感というものも感じていました。時折出てくる空想で、この世界は自分以外は全部「演技者」であり、裏で示し合わせて何事か私の前でお芝居している…というものがありました。鉄道で遠くへ行った時など「ああ、また同じセットを使ってる」みたいにデジャヴュっぽいことの説明までしてました。
 よく考えてみると、これは自分の知らない「世界」にひとり立ち入って行こうとする「個」の自我としては「わかりやすい」物語なのでして、何も自分だけ特異だったとも思いません。現に、その筋立てと同じ物語をハインラインのSF「彼ら They」(『輪廻の蛇 ハインライン傑作集2』ハヤカワ文庫、所収)で見つけたこともありますし、これは私が生まれる前に書かれたものでした。


 たぶんそういうところから、私が周囲の人に取る間合いはいくぶん通常より広めであったかもしれません。それで大して不都合もありませんでした。ただ、急に自分の間合いに入ってくる人には強く警戒感を持ったというのはあります。
 友達という言葉にも少しこだわり*1と言いますか簡単には使えないところがありました。クラスメイトはクラスメイト、それを簡単に友達などとは言えなかったですし、よく考えれば「親友」という言葉を私から誰かに使ったことはなかったように思います。


 そうなんですけれども、「人がわかりあえる」という物語には拒否感ではなく大きな感動を感じる方でした。そしてそういうラッキーでレアなことが自分にも起らないかと夢想するタイプでしたね。後にお酒を飲むようになって、飲むといきなり自分の間合いを縮めることができるのに気付き、毎日のように飲んでました(というより「ます」笑)。でもお酒のことは醒めれば終わりで、大きな期待もせず、失望もせず、何となく読む本ばかり増えるといったような淡々とした日々を送っていました。


 そういう私が卒論で書いた主題は「独我論」の正当性はあるのかどうかといったもので、小難しいジャーゴンまみれのものでしたが、その後もぼちぼち考えてみますとたいして難しい言葉を用いなくても言えることでした。それはこの日記でも「他者論」のカテゴリーで書いたところに置いてあります。


 今日も五時ごろ目が覚めてしまいました。犬と暮らしていた時の習慣がまだ残っているのか、それとも歳を取ったからか、この時期は日の出が早くなってきますのでこういう不具合がありますね。ということでこの時間に、思いついたことをつらつらと書いてみました。
 他者の怖さだ何だと言いますが、結局は個人的なところから出てくるのかなとふと思ったのです。あえてそこにレヴィナスを引かないのがここでのたしなみ。もちろんこの場でレヴィナスって誰?と聞いてくるような不心得ものが存在していようはずもない…

*1:もともとの悪い意味で