「ホームレスの人を助けなかった私」について

 G★RDIASでkanjinaiさんが新しいエントリーを立てられました
 ホームレスの人を助けなかった私
 これはx000000000さんの例示とはかなり違ったシチュエーションです。「x000000000さんのエントリーに発する論争を腑分けするための…第一歩」とされていますが、ここからどう遥か遠いところまで歩まれるのでしょうか。興味は湧きます。
 正面からこの問いに答えますと、これは自分だったら少なくとも声をかけるところです。大阪の冬の夜でも人は死ぬかもしれません。コメント欄でkanjinaiさんは

 私自身は、「間接的であれ、加担した」という思いをぬぐい去ることはできません。寝てたかもしれないし、目の前で死んだわけでもないし、次の日に元気だったかもしれない、から加担したとは言えない、というふうに自分に言い聞かせることはできます。が、それで納得してない自分がいます。

 とおっしゃっておられますが、後でそう考えるくらいならその時に勇を鼓して声をかけるほうが全然いいです。それで何ができたかというのはとりあえず別の話。状況はやや異なりますが、実際に私も何度か声をかけていますし、後味の悪さを考えればそれを選ばざるを得ません。


 直接目の前でどなたかの生死の危うい(と自分で判断するような)状況に接して、それに対応しようとするのは「惻隠の心」と言われるもの。この言葉が二千年以上も生きながらえたのは、目の前の人だったら思わず助けるだろうという例示が説得力を持っていたからだと考えます(そのぐらいには私は人間というものを信じております)。もしかしたらその時kanjinaiさんは、心からそのホームレスの人の命が危ないと感じられなかったのではないでしょうか? そしてそれについてはもちろん誰も責めるわけには参りません。というより、ご自分がご自分を一番責められるのでしょうから…。


 先のx000000000さんの例示に対して私はこう書かせていただいていました

 「アフガニスタンの家族に対する言及」と「その200円」という書き方で、問題をまるで「眼前で死んでいこうとしている人」を助けるかどうかの倫理判断と同等のものにされているようなのですが、これが詐術です。眼前で死んでいこうとしている人は今ここにいないのです。

 私は目の前で死なんとする人に手を差し伸べることとx000000000さんの例示は違うと切り分けたつもりでおります。
 このkanjinaiさんの立てられたシチュエーションでは「対面」という状況があります。それは一対一の特別な関わりの状況です。ところがx000000000さんのシチュエーションでは、私の前にあるのは一つの情報です。その貼り紙を見て、ある個人がそのアフガニスタンの家族と「向き合う」ということはあり得ます。でもその情報に縛られず、その人は他のものと対面しているかもしれないのです。その一片の情報を以って、アフガニスタンの家族と対面しろと他の人に強いることはできません。


 このように二つの例示は相当の懸隔を持っています。ですから、これをつなぐことができるとしたらそれは相当にすごいことだと思いますし、その意味で興味津々なのです。目の前という特別な位置にある人に手を差し伸べることと、アフガニスタンの人に募金することは「距離的に」ではなく「質的に」断絶することなのですから。


 そしてついでに申しますと、「私たちは何かを殺して生きている」という覚悟の問題をここに見ておられる方々には、私が指摘させていただいたx000000000さんの例示の問題はそこに焦点があるものではないということだけ了解いただきたいと思います。
 あの例示でx000000000さんは「貼り紙にあったアフガニスタンの家族」に対してguiltyだとおっしゃっておられました。そういう風に恣意的に誰か(弱者を)持ち出した者が、それだけで他者の罪を問えるというような話の持って行き方自体が問題であるということなのです。「お前はなにもしなかったであろうと」目前にいない誰かの話を持ってくるだけで、人の心に刺さる言葉を吐くことを正当化できると考えるならばそれは違うと思うだけなのです。


※pbhさんの「幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする」でも、二つの状況の違いを指摘されていました。自分だけじゃないと思えてちょっとほっとします。