悪趣味ですが
米大学乱射事件は声も出ないような悲惨な事件でした。むしろ想像が追いつかないぐらいで、昼過ぎに一報を聞いてから夕方になるまで頭の片隅に追い遣られていたぐらいです。evilなものをひしひしと感じたのは暗くなってからでした。亡くなられた方々にはご冥福を。
(※不謹慎の誹りは免れませんが、夕べこんな凄く後味が悪いパロディーを考えていました。一度は没にしようと決めましたが、朝になってそれも偽善的と感じましたので書いておきます。事件の時に自分がひとたび考えたこととして残したいと思ったからです。)
あなたは『トレンチコートマフィア乱射事件』を知っていますか? マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見たことがありますか?
あなたは、1992年のハロウィンの日本人留学生(服部剛丈君)射殺事件を憶えていますか?
このいずれかを知っている、見ている、憶えているあなたは、銃所持社会アメリカの現状に対して何らかの行動を起こしましたか?
もし何もしていなかったとすれば、あなたはヴァージニア工科大学で昨日起った銃乱射事件で「間接的に殺人を幇助した」のです。問題があるのを知りつつそれを気に留めなかったからです…
あなたは間接的な殺人者です。
誰がいったい「あなた」を責めることができるでしょう? 誰もいるはずがありません。でもこれに類似する言葉は、今何気なく発せられているのです。
もし罪悪感にも似たものを一たび意識にのぼらせてしまうと、銃規制はアメリカが自分たちでやるべきものだとか、悪いのは犯人だとか、関係ないよとかいう考え方が、「自分にとっての言い訳」じみて聞えてきませんか?
ものすごいトリックです。自分は自分と堅く思える人や、冷静に事を眺めることができる人、露悪的な人など以外は、必ずやどこか刺さってくるものがあるはずです。それほど「殺人者」という告発は重く、「間接的」などという語をつけても強いものなのだと考えます。
自分で考えて自分で決めることができるように、傍からは(偏りの少ない)情報の提示などに留めておくべきです。それ以上をやって、お前は何をしているのかと詰るのは、どれもこれもうさんくさいと思わねばなりません。
道義的責任は自分で受け取ろうと思わない限り発生しませんよ。