中道

 …戦後の民主主義日本がつくりあげてきた市民像はなんと薄っぺらで平板なことであろう。市民社会を構成する最終の実在は自由と平等の個人であるという。それに近い人間類型を現に析出した社会はなによりも経済社会、それも効率本位の市場経済の社会であったことを知らなくてはならない。自由と平等に専念して責任と相互扶助を見失ってしまった社会。個人主義といっても、その担い手は大衆の中の砂のごとき実在でしかない個人…
 (玉野井芳郎「中間の意味」『現代思想』vol.5-1所収)

 経済学者の玉野井芳郎氏*1がこうおっしゃったのは三十年前の1977年です。ちょうど新聞紙上などで「中道」的な政治集団の台頭が言われ、「中道」諸政党の進出によって保守単独政権の時代が終わろうとしているのでは、と騒がれた時代にあたります。


 この「中間の意味」という小論で、玉野井氏は「中道」の意味を考えられています。それが単に保守と革新の中間を行くものとして考えるだけでいいのかと問われるのです。氏がまず引かれるのは、トーマス・マンが「市民性」をめぐって述べている文章です。

 ドイツ的本性とは、真中に位すること、中間に位置して仲介の役割をはたすことではないだろうか。ドイツ人とは、大規模な中間的人間ではないだろうか。市民(ビュルガー)であることがすでにドイツ的だとすれば、市民と芸術家との中間、愛国主義者とヨーロッパ主義者、プロテスト派と西欧派、保守主義者とニヒリストとの中間に位置することは、たぶんそれ以上にドイツ的であろう」
(前田・山口訳、トーマス・マン『非政治的人間の考察』筑摩書房、1968)

 そしてこの「市民性」と比べて日本の市民像の貧困は…という具合に冒頭の引用につながります。ですがこの失望感は、次のフレーズでの期待感を盛り上げるためのもの、とも受け取れます。

 この無名性の世界を突き抜ける新たな社会がようやく到来しつつあることを予感し期待しない者はおそらくいないのではあるまいか

 トーマス・マンが示す市民像はドイツ・ハンザの全盛期、12,3世紀以降の「中間諸身分」に理想を持つだろうと玉野井氏は考えられ、その「職人的芸術性」と「市民性」こそが誇りと責任を持つ新たな社会の市民として求められるのではないかとおっしゃるのです。

 市民ということばが意味するのは、品位や堅実さや生活の快適さと無縁でないように、精神や芸術とも無縁ではない。エレガンツに対する私の感覚は、都市生活に根ざしたものであり、つまり文化であって、上品なブルジョワの場合のような、インターナショナルな文明ではない。
 …私がリベラルであるにしても、それはリベラリティ(もの惜しみしない豁達さ、気っぷのよさ)という意味においてリベラルなのであって、リベラリズム(政治的自由主義)の意味でリベラルなのではない。というのは、私は非政治的であるからだ。
トーマス・マン『非政治的人間の考察』)

 氏はオートメーションやら巨大主義やらの仕掛けを粗末な「市場経済市民社会」の擬制と考え、それを突き抜けた先、そのかなたに新たな市民社会の再生を夢想します。その新たな「市民」の再生は、氏によれば「ゲゼルシャフトの中にゲマインシャフトを再構築するひとつの知的冒険」を意味していました…


 その後三十年。いまだに氏の考えられた新しい中道の市民社会は姿を見せておりませんが、私には「ゲゼルシャフトの中のゲマインシャフト」というところで、ネット社会に何か可能性はないものかと感じられます。
 無名性を時に極限まで推し進めたネット。しかしそれは商品や情報の消費者の立場を崩してもいるように思われるのです。ただ、それは時にすごく下品になってしまっているのですが…

*1:私はポランニーなども訳された方というぐらいしか存じ上げなかったのですが…略歴:http://www.msz.co.jp/book/author/14732.html