hishimaruさんへ2

 まず後ろの方のご質問から

 国と個人との関係においては、罪刑法定主義は重要な原則ですが、他の共同体、すなわち地域・会社・家族・友人という共同体においては、普通は明文化されたルールはありません。その共同体内での“常識”によってルールが決められています。しかし、たとえそのルールが誰の目にも明らかなものではないにしろ、共同体はその内部の者に義務を果たすことを強要することができます。

 それが「内輪のルール」というものでしょう。私が言っていますのは、結局その「内輪のルール」で責める人も責められる人も何らかの「内輪」に存在しているという指摘です。そしてその「内輪」には外部があり、責められる人が責めを負いたくなければその外部に行けばいい、ということです。その外部にいる者を責める「内輪の論理」は、それを語るものが堅く信じていようが「外部」に対しては無効なんだということなんです。

「法的責任以外は問えない」とするuumin3さんの考え方は、「国家」以外の共同体を一切認めない、という考え方です。


これは、国家主義ですらありません。


セカイを国に置き換えた、一種の“セカイ系”の考え方ですよ。これは。

 どうも正確に読んでいただけていないようです(書き方も悪いのかも)。
 日常生活の中で、いくらでも法的責任以外のものを問われることはあるでしょう。そしてそこに責任を感じ義務を果たそうとするならば、私たちは知らないうちに何らかの「内輪」として「ある」ことを選択しているのです。たとえば「無頼」の自由さは、そうした内輪(たとえば小市民的な絆)を意識的に離脱したところに生じます。普通そうしたものを内輪として失いたくないから、私たちは法以外の責任を引き受けるのです。そしてその中でも「人倫」*1というものを外れるかどうかというのは、大きな決断を人に迫るものでもあります。
 法律違反をしていなくても「実質的には詐欺」みたいな言い方があるでしょう? あれは「法律を破っていないんだから何が悪い」と開き直る人には届かない言葉でしょうね。それを忘れて自分で糾弾できているつもりになるのは、たとえば無意識にも「何らかの倫理的規範を守る内輪」をその人が想定し、それが当たり前だと思ってしまっているからに他ならないでしょう。


 さてここらへんを押さえた上で前の方のご質問を見ますと、おっしゃる「客観的な基準」というものは単に「自分の外側に由来する」ということを言っておられるのではないですか? それは実は客観というものではなく、何がしかの「人の造りしもの」なんですよ。そしてそれは絶対なものではないのです。さらに言えばその人工物に対して、私たちは常に参照しつつも影響を与えることがあるのです。たとえばそれが「美人」の基準なんですよ。そこに何らかのものがあり、それは自分を越えた基準として自分に参照を強いるように思えても、それは決して客観ではなく、むしろそこに自分が影響することさえできる一つの相対的価値なのです。


 そういうことをもう一度お考えになってはどうでしょうか?
 とりあえずこんなところで…

ちょっと追加

 私は道義的責任のレベルに自分なりの(内輪の)正しさはあると思いますが、それを超えた正義なるものが関わる次元ではないと考えます。だからこそ(自戒も含めて)それを他者に適用する(押し付ける)ことはできないだろうと思っているのです。(もちろん説得しようとすることはできますし、相手にそれを考えさせる試みは無意味ではないでしょう…)

 参照先の日記記事に、私はこのようなことも書いていたのですが…


 お前も同じ「内輪」だろうという前提の問いかけ(道義的責任を問う声)に対しては、「違います」(私はあなたの「内輪」ではない)という拒絶の言葉は常にあり得ると思わなければならないでしょう。それこそが他者の他者性を示すあり方であって、私はそこで生じる断絶の深さに怖れを見ます*2。その怖さを知らず自分の立場(一つの内輪の立場)を「正義」だと思って安易に詰問できると考えるのは、それはもう罪に思えるくらいの(←譬喩)鈍感さだと思います。

*1:実はそれが何であるのか確定的に言えるものはいないのですが、皆それぞれのイメージで受け取っているものです

*2:この意味で、「だって私はあなたじゃないもの」という言葉は一つの究極の拒絶の形です