うたがいのつかいみち(解答編?)

 昨日のエントリーから、ゴフムさんの提示した疑い

 みんなは、世界はずうっとむかしからある、と言っているが、そんなことはとってもうたがわしい。もしかしたら、この世界は、おれが生まれる5分前にはじまったのかもしれない。そうじゃないっていう証拠はないのだからな。……うん、そうだ。『世界は、おれが生まれる5分前にできた』と言いはってみよう。だれか、おれのこの主張がまちがっていて、世界はもっとずうっと前からあるんだ、と言えるかな

 これに対して、ソルテスさんはどう答えたかです。

「…『世界はずうっとむかしからあった』という証拠はない。だから『世界はずうっとむかしからあった』ことはたしかめられない。ソルテスさんだって、これをみとめるほかないはずだ」
「ああ、そのようじゃね」
「よし。それなら、まけをみとめて、10タラル出しておくれ」
「おや、どうしてかな。わしはまだ、ゴフムさんのうたがいがもっともだとは言っとらんのじゃがな」
「だって、証拠はない、たしかめられない、と今言ったじゃないか」
「証拠がないこと、たしかめられないことは、なんでもうたがうのがもっともなのかね」
「あたりまえじゃないか」
「いや、ちがうんじゃないかな。そればかりか、わしたち人間は、もっとも肝心なこと、すべてのことのもとになる考えについては、証拠もなく、たしかめようもないのに、まったくあたりまえのこととして受け入れ、それにもとづいて生活していると思うのじゃよ

 ここで語られるソルテスさんの言葉の由来はいくつか考えられるかもしれませんが*1、結局のところ人は自然的態度において疑い得ない何かをもって生きているという哲学的思惟を語っているものと思われます。懐疑論者に対して、その懐疑自体の有効性を問いかけるといったところでしょうか。
 あまり全部書いてしまいますとせっかくの著作のネタバレになってしまいますし、あの面白い絵がついていなければ台無しなので、ちょっとだけこの後に続くやり取りのある部分を引きます。*2

「ゴフムさん、おまえさんが生まれたとき、年よりもいたし、子どももいただろ」
「もちろん、いたよ」
「では、『年より』とはどういうもので、『子ども』とはどういうものかね」
「そりゃあ、ソルテスさん、長く生きているのが『年より』で、生まれてからそれほど時間がたっていないのが『子ども』だ」
「そうかい。だがおまえさんのうたがいによると、おまえさんが生まれたときには、みんなまだ5分しか生きていなかったのではないかね?」
「??!!」

「本気でうたがうなら、『世界がむかしからある』という考えをまったくかんじょうに入れないで、あれこれ考えなければならん。そこでおまえさんは、今とはべつの言葉を作って話をしなければならん。だがそうなると、おまえさんの言葉はみんなに通じなくなるし、みんなといっしょに生活することもむずかしくなるじゃろなあ」
 ゴフムさんは考えこんでしまった。

 この後時間論みたいな話があり、現在とは何か、永遠とは何か、永遠と人生について考えるとかいったシチュエーションが続いて、

ソルテスさん、今の話にはまだまだわからないことがあるけど、しかしおれが何をもとめて、何をどううたがうべきなのかは、少しわかったような気がする。うたがうということは、自分自身をぎんみすることで、ひとをこまらせてよろこぶためにすることではなかったんだなあ」
「そうそう。それがわかっていれば、おまえさんのうたがい自体はとても大事なことだったのだから、わしの言ったことでおわりにしないで、もっともっと考えてよいことなんじゃ」

 という言葉があり、その後のやり取りでエンディングです。


 ここででてくるゴフムさんは結局はもののわかった人だったわけで、これがもしもっと天邪鬼な人だったらきれいなエンディングは望めなかったでしょう。やはりソルテスさんの言葉で納得しない人もいるように思われるからです。
 でもこういう議論は勝ち負けではなく、特にここでは何かを得る・気付くための「対話」が成立しています。これこそが実りある議論というもの。これをまず読んだぐらいの小学生は、今二十代半ばぐらいでしょうか。でも年齢とか関係なく大人だっていつでも学ぶことはあるし、できるんですよね。

*1:私には「根源的臆見(Urdoxa)」とか「原初的信念(une foi primordiale, Urglaube)」とかいう言葉につながるものの示唆に思われます。

*2:もし本当に興味のある方は、昨日のリンクからバックナンバーをお求めになるか、図書館などをお探しください