昨日のエントリーをあげた理由(責任論関係)

 責任というものを考える上で、私がごく最初期に意識した一つの問いがあります。それは、

 親が罪(極端には殺人など)を犯した子供は、それを理由にいじめられたり罵られたりしてもよいか

 というものです。私の答えは「罪は遺伝するはずもないので、もしクラスにそういう子がいたとしても自分はいじめないし罵らない」というはっきりとしたものでした。仲良くできるかどうかはわかりません。気が合うタイプか、向こうが私の方に興味を持つか、仲良くなるきっかけはあるかなど不確定なことが多いからです。でも少なくとも親の罪を理由に子を責めるのはおかしいと思います。
 そこから『ロミオとジュリエット』状況を考えてみたり、『忠臣蔵』のケースを考えてみたり。そこらでいろいろ責任と個人というあたりを考えた後で「戦争責任」を見てみますと、これはもう連帯責任を問われているんだなと思われました。そして、その連帯責任を受けいれるも受けいれないも自分の判断によるものと考えられました。


 自分で犯した過失や罪というものに対する責任に比べて、この連帯責任というものにはどこかうさんくさい感じがします。たとえば学校で「クラスが騒がしいから」罰を受ける場合、大勢の中の一人とはいえ自分がそこにいたのでしたら、これは連帯責任ではなく自分の責任とも考えるでしょう(たとえ自分がうるさくしていたのではないとしても)。ただ、自分がたとえばその時保健室にいた場合など、クラスの連帯責任の罰は受け入れられるものではないと思います。それを知ることも止めることもできなかった事に対して、連帯の一言、立場というものだけで責任を問われるのには抵抗が大きいからです。


 多く戦争責任論では「被害者(側)の心の痛み」が言われて参りました。なるほどそこには同情を寄せさせる何かがあります。「足を踏んだものはすぐ忘れるが、踏まれたものは痛みを忘れない」などということも盛んに聞きます。確かにそこに一定の理解はあるべきとも思います。
 ただすでに加害者・被害者の当事者の双方が大多数物故した60年後の現在、その被害者感情がたとえば「靖国神社」に向けられ、そこに加害者の象徴たるA級戦犯を祀るなという気持ちとして働いているならば、私たちはその気持ちにどう対応したらよいのかと考えるのです*1


 さてそこで昨日の、G★RDIASの記事「「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報」について書いた「加害者の慰霊」に関してです。この件についてデンバーポスト紙の元記事で詳細を読みますと、ごく素直に「いい話」「何か感じ取られる話」だと思われるのですがどうでしょう?

 The mourners gathered in front of simple stone memorials, each adorned with a basket of tulips and an American flag. There were 33 stones - one for each victim and Cho Seung-Hui, the 23-year-old gunman who took their lives.
"His family is suffering just as much as the other families," said Elizabeth Lineberry of Hillsville, who will be a freshman at Tech in the fall.


 シンプルな石の記念碑、それぞれがチューリップの花籠と星条旗に飾られたその石の前に死を悼む人々は集ってきた。そこには33個の石があった―それぞれの石が犠牲者たちと、彼らの命を奪った23歳のガンマン、チョ・スンヒのために置かれている。
 「彼の家族も、他の家族たちと同じように傷ついています」と、この秋にヴァージニア工科大に入学する予定のヒルスビルに住むエリザベス・ラインベリーさんは語った。

 ここにあるのは恩讐を越えて加害者の家族にすら気を遣う優しさであり、なかなか持つことの難しい人の包容力というものではないかと思います。加害者が死んでしまった以上その怒りにはやり場がなくなってしまうのですが、それをいたずらに加害者の家族やそちらの方に向けず、むしろ深い悲しみの同情・共感で包み込む。これは日本人であれどの国の人であれすごいことだと理解できるものでしょう。それができるかどうかは別にして。
 そしてこれは60年間も被害者意識を存続させたり受け継いできたりする態度の対極にあるものとも感じます。


 たまたま「靖国神社」の名が挙げられているのを見たとき、私の中ではそういう連想が働き、そして思ったのです。被害者感情を何より重視すべきだと主張されている方々は、この被害者感情の昇華という事例を見て何を考えるだろうかと。


 またさらに、昨日挙げた「高砂慰霊碑の件」のケースでそこに働いている被害者感情というものを正当なものと看做せるだろうか、ということも思いました。
 政治的側面は抜きで、犠牲を悼みたいという宗教感情と、その死者は加害者だから慰霊は許さぬという被害者感情の葛藤*2としてこのケースを見ますと、私たちがどうこれを考えていくべきなのか(というより私がどう考えたいのか)がそれぞれの人の心の中で様々な解を出してくるだろうなと思いまして、昨日は急遽二つのエントリーを書かせていただいたのでした。

*1:私自身が靖国問題をおかしいと思う理由はここにはありません。しかし「加害者側」として責任を問われる時、被害者感情をどう捉えるかというのは常に問題であろうと考えます。

*2:実はここにもある種の宗教感情があると思われますが