ポリティカル・コレクトネスが考慮されない

G★RDIASの記事「On Faith」のコメント欄のやり取りと、その中でのantonianさんの次の言葉

antonian 『日本では宗教心を確信している人はマイノリティですね。ネットなどを見ていると「宗教」に対する無知と偏見に満ちています。宗教者が無意識に、素直に吐く言葉など、他の価値を持って計ればおかしいに決まっているわけです。「復活」なんて荒唐無稽な単語は。キリスト教の人間にしてみれば「ご愁傷様」ぐらい慣習的な思考ではありますが。
(中略)
宗教者が自由に自分の宗教的価値を持って話す権利はありますでしょう。島にいると自然に自然神道的な話法の中にほおりこまれますが、気にしたことはありません。「なるほどここはそういう伝統なんだな」と感心するだけです。
(中略)
日本においては、kanjinaiさんの様な人がマジョリティであり、我々のようなキリスト教徒、或いは琉球神道、一つの信仰を保持しているものがマイノリティです。「マイノリティに配慮する」なら、「このようなことを言挙げされるのは大変に戸惑い、そして傷つく。故に配慮して欲しい」と言う言葉が返ってくる可能性もあります。』 (2007/04/22 11:26)

を読ませていただいて、結構前から気になっていたことを書いてみます。
 それは、日本の信仰者(とりわけ新宗教の成員)に対しては、政治的左右を問わずポリティカル・コレクトネスを考えろという声が聞こえてこない(あるいはとても小さい)ということです。


 この間の(特に都知事選での)選挙に関する論評などで、非常に不躾に宗教団体に属する個人に対しての偏見が語られていたように感じます。たとえば偏見がもっともひどいと思われる某ブログでは次のような記述がありました。

東京都の有権者数は10,409,199人。石原慎太郎の得票率は、全有権者の27%。…281万人か… 全国の霊友会信者数が440万?らしいから都内にはだいたい40万人くらいいるか。創価学会は今回石原慎太郎を支持しているだろうから(確認してないが)、信者数800万のうち都内が80万くらいか。立正佼成会も今回石原慎太郎を支持しているだろうから(確認してないが)信者数300万のうち都内が30万くらいか*1。崇教真光石原慎太郎は繋がっているから、信者数50万、都内信者5万くらい。これらを足すと185万。その他佛所護念会教団日本会議系の有象無象な新興宗教石原慎太郎と繋がっている。これら有象無象な新興宗教信者が都内にどのくらいいるかよく判らないが、281万票のうち、200万くらいは新興宗教団体票だと思ってよさそうだ。日本政治はこれら新興宗教により強引されている。

 この「宗教団体」が何人だからこれは○○候補に入れるだろう(もしくは入れる。入れるに決まっている)という推測は、そのまま「その宗教団体に属する個人は投票に関して自由意志を失っている(に決まっている)」と言うに等しいと考えます。彼らはそういう「操り人形」で「騙されている」のだという決め付けは、その方々の人格へのきわめてひどい侮辱です。
 もちろんこちらのブックマークコメントにもたしなめる声や非難する声が載っていて、それはそれで正気な方も結構おられるなあと感じたのですが、次のような例はどうでしょう。

 先日の知事選もわれわれフツーの市民を落胆させたが,昨日は希代の悪法「国民投票法案」が強行採決された。
 この法案の問題点は,もんのすごく短く言うと,最低投票率の規定がないために,特定政党とつるんでるわけのわからん宗教団体とかの組織票があれば一発で憲法を変えられるということである。

 これは某大学の先生のブログ記事です。ぼかしていればいいんでしょうか? 何かあからさまに「宗教団体の信者はロボットだ」と言っているようにも見えるのですが…。


 自分の専攻の関係などから、大学以降いろいろな宗教関係の信者さんたちと知り合ったりお話をする機会もありました。特に戦前から続くような古株の新宗教系の信者さんたちはそのほとんどが信者の二世、三世で、今現在組織の拡大を強く推し進めているところは多くはありません。そして彼らは彼らなりに信仰というものを考え、あるいは脱会し、あるいはまたそこに戻ってきたりして、いろいろな状況がそこにはありました。
 さらに感想を申しますと、彼らは何度となく偏見に出会ったりいじめられたりという経験を持たれてきて、普通に身構えないで話してくれる一般の人と接するとほっとするようでもありました*1。信者が多い団体とか固まって暮らせているならまだしも、一家だけぽつんとあって普通の学校に通っているような場合、特に子供に偏見のしわ寄せがきついように思われます。


 確かにカルトと言えるような宗教団体もありますし、騙されたとかお金を失ったとか職場や学校を辞めなければならなくなったという被害も少なくはありません。そういうカルトに関しては、はっきり社会的に告発すべきであろうと考えます。
 それでも「宗教」は危ないからと偏見を温存し、心無い言葉を浴びせ、あるいは信者であることをロボットであることとほのめかすような、そういう態度が存続して良いものとも思わないのです。


 私自身は「言葉狩り」レベルのポリティカル・コレクトネスには批判的です。言い換えが単なる問題の隠蔽になるだけの場合が多いように考えていますし、そこで過剰な配慮によってたとえば「片手落ち」という日本語が「片落ち」というわけのわからない語に変えられてしまうような無残なことが起きることを憂慮するからです。
 しかしながらPCが一定の成果を挙げ、弱者・マイノリティーに対する配慮をもたらし、それが無反省な層を少なくしてきたということは評価もしています。
 もともとアメリカで始まったPolitical Correctnessには「人種・民族・宗教・性差別などへの偏見を良くないものとする」政治的立場、とてもリベラルなそういう立場が反映していたはずです。なぜ日本においては、宗教の信者に対する配慮があまりなされているようには見えないのでしょうか?
 明らかにそこにはマイノリティーゆえのつらさが存在していると思うのですが…

*1:信者であることを最初から明かして話をする場合、というケースです