子どもの哲学と青年の哲学

 一つの事柄について論じ合っていても、何に関心があるか、その事柄のどこを見るかなどによって異なる帰結が出てくるものです。論理としての正当性が時に問題になりますが、それ以前に前提が違ったり、言葉の概念が違ったり、はたまたその論理にどれくらい関心を持つか(その理屈自体で争うことに意味を感じるかどうか)などなど様々に「すれ違い」が生じる余地はあります。本格的に議論に乗った(乗ってきてくれた)と思っていても、つまり同じ土俵で言葉を交わしていると考えていても、いつの間にか相手が隣のコースの9番ホールにいたというような索漠とした感じを受ける結果になることも少なくはありません。
 現実を見ろ、というような言葉にしても、私は「現実」というものは「誰それにとっての現実」つまり「その人にとっての意味付与が為された状況(世界)把握」だと考えておりますので、それが一意に同じ現実とは限らないのです。だからすれ違いは出てきてしまう…。
 まあどこかの狭い学問分野での議論なら、前提がある程度一致していますのでもっと論を戦わせるのは楽なのでしょうが、ストリートファイトのような議論となりますとなかなか難しいものです。それでもそのストリートファイトの方が面白そうに思えるものなので、皆さん興味を無くしたりはしないのでしょうけれど。


 関心の違い、現実の違いがこのように他の人との議論を難しくしているのですが、それと同じことは一人の人間の中でもあると思います。単純にあてはめてどうのということでもありませんが、以前ちょっと触れた日大の永井均氏の著作からちょっと引用します。

 子どもの哲学の大きな特徴は、純粋に知的であることである。それによって何かが変わるわけでもないが、ただ単にほんとうのことが知りたい。これが子どもの問いの特質である。

 子どもの哲学の根本問題は、存在である。森羅万象が現にこうある、というそのことが不思議で、納得がいかないのだ。ここでは問いは、どうしたらよいのか、ではなく、どうなっているか、というかたちをとる。

 青年の哲学の根本課題は、人生である。つまり、生き方の問題だ。いかに生きるべきか―このひとことに青年の問いは要約される。

 青年は、現実を越えた別の価値を求めるが、価値を求めるというそのこと自体を、問題にすることはできない。青年とは大人の予備軍であり、その超越性とラディカリズムは、見せかけのものにすぎない。

 大人の哲学の最重要課題は、世の中のしくみをどうしたらよいか、にある。生き方や人生の意味とは別の、社会の中での行為の決定の仕方が問題になる。大人は価値を相対化し、複数の価値を比較できるようになるが、その過程で存在の問題は完全に忘れ去られていく。

 老人の哲学の究極主題は、死であり、そして無である。それを通じてもう一度、子ども時代の主題であった存在が、問題になるだろう。

 こと哲学に関するかぎり、青年は子どもに、大人は青年に、そして老人は大人に、かなわない。だが逆に、子どもの哲学は、老人の哲学にだけは、かなわないだろう。そこに哲学というものの限界が示されている。

 青年の哲学、大人の哲学、老人の哲学は、それぞれ、文学、思想、宗教で代用できるが、子どもの哲学には代用がきかない。
 (永井均『<子ども>のための哲学』講談社現代新書1301)

 ここで出されている「子ども」とか「青年」、「大人」とか「老人」を何歳から何歳と大体でも定義付けること自体が、この話をひどく小さくしてしまうことになるでしょう。ネット的には(○○占いみたいに)そちらの方がウケるのでしょうが。


 一人の人の中に、実は何歳になっても「子ども」「青年」「大人」そして「老人」はあるものなのです。ただそれがどのくらいの比率になるかはかなり年齢に相関し、それでも人によって違いがある…そういうものでしょう。(またこれは単に「哲学」というものを一人の人間に仮託しているだけの話ですし)


 こういう区分の「青年」と「青年」とかいうように、その関心が一致する者どうしでは話が合う確率は高まるかもしれません。でもそれと同じだけ「絶対に相容れないことがわかる」というように決裂することも同じだけ確率が高まるかもしれませんね。