ウェブに他者は…

 きちんとまとまってないのでトラックバックを送ったりはしませんが、G★RDIASの4/27の記事「ウェブに「他者」は現われるのか?」を読んでちょっと感じたことなど。(アンテナに入れてます⇒)


 コメント管理、ネットでの悪意への対処という面と、その理由付けとしてのそこには「他者」はいないという主張の二つの面が、まあうまく噛みあっていないように思いました。お気持はわからないでもない…というところが多分読まれた方の感想の少なからぬ意見でしょうが。


 ウェブに他者はいるんですよ。いるといいますか他者だらけと言ってもいいと思います。
 私は他者というのはまず何より「自分の思い通りにならない」という面で自分に現れるものだと考えています。それだから他者なのであって、その意図とは関係なく(むしろそれがわからないから)他者なんです。他者問題というのはそこから始まるもので、それにどう対応するかというのはその後のことです。


 そこには「何を考えているかわからない他者」がいます。何をどう書いて公開しても、それをわかってくれる人もいればわかってくれない人もいます。わかろうとしてくれない人も多いでしょうし、わかったと言ってくださっても誤解かもしれません。そういう人たちみんなが「他者」であって、ものを言ってくる他者もいれば、ROMしているだけの他者も大勢いるというそれだけのことなんです。
 それでも何がしかのことをわかって欲しいから私たちは発信しているんじゃないですか。最初から他者だからと切り捨てているわけではないんですよね。それは他者が他者でいるだけではないということを、どこかで私たちが信じているということの表明ではないでしょうか。


 他者への恐れを感じること自体は普遍的な感情です。その怖さとどう向き合うかが他者問題です。絶対に他者と対話しなければいけない、なんて誰も言いません。対話は万能の手段ではないのだと思います。でもそれしか方法がない時、他者を切り捨てるだけではいけないと感じる時、多分それを用いるしかないのではないかとも思います。


 どの相手にも理解してもらいたい、理解してもらうことができると考えるのはあまりにも楽観的です。私も何度か消耗するやり取りをしたことがありますし、結局それで最後まで分かり合えなかったのもざらです。まして知名人として意見を公開するような時、どれだけ興味本位の人々が集まってくるかを考えれば、すべてに答え、皆合意まで持っていくというのは不可能だろうなと思います。ただそうした他者への向かい方は、一対一の対話でなければならないということでもありません。それは工夫次第、態度次第ということもあるのは、長くネットをやっておられればわかってくると思うのですが。とてもた易く意見の提示ができてしまうネットというメディアでは、何らかの意見交換のハウスルールがあっても良いんです。今のところはその点でかなり不完全さも残っているなあと感じます。それでもコメント欄の不毛なやり取りは、トラックバックという手段などでいくらかでも緩和されているようにも思うんですね。


 また一つ忘れがちなのが、「私にとっての他者としてのその人」と「その人にとっての他者としての私」は対称的なものだということです。自分の視点で、そして一人でいろいろ対処しているとどうしても「自分」対「有象無象」という構図でしか見れなくなってしまうこともしばしばですが、落ち着いて考えてみるとどの「他者」もその当人にとってはかけがえの無い「自分」です。
 だから尊重せよ、という短絡的な結論でもないんです。もちろんこの「自分」だって尊重して欲しいものですし、無理に一人で全部被る必要はありません。ただちょっと考えてみると、怖いのも苦しいのも泣きたいのも自分だけではないんじゃないかと気付くんです。そういう目で見ることができれば(余裕の無い時にはひどく難しいのですが)、少し違った対応も思いつくことができるんじゃないかと希望はもっています。


 話は飛びますが、先日来の「200円寄付しなければ殺人者かどうか」という論争で、私はある時点で「今わかって欲しい」という態度から離れました。最初はどうにも自分の言っていることを、今ここですぐにでも「わかってください」いえむしろ「なぜわからないのか」という気持が強かったのですが、どこかで相手に通じていないことがたびたび感じられて、無理はよそうという態度に変わっていきました。やっぱり「他者」なんだとふと思えたということもあります。むしろそこで「なぜわからないのか」と強いるほど甘えてはいけないのだと感じたと言ったほうがいいかもしれません。
 そうはいっても立場は変える必要を感じていません。それにこのテーマに近い一つのことは、ずっと考えてきたことですしこれからも考えていくだろうことですから。また、今回は理解してくださったり共感の言葉を寄せてくださった方々がこれだけいて、それはもう十分報われたと感じたからというのもあります。いずれ蒸し返すことはちっとも厭いません。
 ただこの件に関して、最初私がいささか挑発的に問いかけたx0000000000さんからは私はまだ何もご返事がないと理解しています。その意味で氏は未だに私にとっては他者のままです。氏にとっての私もそうでしょう。
(あと全く余計なことかもしれませんが、おそらく私より「強い」terracaoさんとkeya1984さんが、強い分だけコミットし続けて、結果としてもしかしたら不本意な感をもたれてしまったかもしれないのは強く残念に感じています。それを感じるぐらいには、少なくとも私にとっては部分的に他者でなくなっていたのでしょう。ただしこの気持が独り善がりでないかどうかはわからないのですが…)


 何かぐちゃぐちゃに書いてきてしまいました。おしまいに少しだけ蛇足を。
 「他者」を「他者」だからと切り捨ててはいけないというのは、理想として正しいと思います。ただ、それが「他者」を作ってはいけないと強迫的に思うことにつながったり、「他者」はいないものだと振舞うようになったりするのは正しいとは全然思えません。それは当然怖いものなのです。他者は怖いもの、怖いから他者なのです。そこにはもしかしたら同語反復に近いものがあるのかもしれません。
 「あいつはこういう事を考えている(に違いない)」と自分の中でへたに了解してしまう、見切ってしまうのは、不自然に他者を他者でなくしてしまう行為ではないかとも考えています。それは自分の考えの中の小さな部分に相手を矮小化して整理してしまうことです。「他者」はそういうもので捉えきれるものではないということだけは、私は確実に感じています。