「アドバイス」について考える、をちょっと考える

 小野和俊のブログさんの「「アドバイス」について考える 」を読んで。
 小野さんは「ありがたくないアドバイス」というものを「裏側にアドバイス以外のものが隠れている」ものと考えられて、その隠れたものとして

1. 自慢            (…ひけらかし)
2. 注意する側にまわる喜び   (…規範内における勝者としての立ち位置の確認)
3. 負けていないことのアピール (…自分が勝っているところもあるのだというアピール)
4. 俺流の押し売り       (…アドバイスと自己表出の快感との錯覚)

というものを挙げられています。3と4はかなりシチュエーションが限定されてくると思うのですが、1と2あたりは「ない」と言い切ることなど難しいほど、自分を含めてありがちなことだと感じました。
 でもこれらを避けようとすることが本当にかしこいことなのかについては、ちょっと疑問もあります。


 こうした「負の感情?」が全く無い「純粋なアドバイス」というものがあるならば、それは
1 相手のことを親身に考えて
2 自分だって決して褒められたものではないと自覚しつつ
3 ここで助言したからと言って自分が上ということではないよと気を遣い
4 アドバイスを受けるも受けないもあなたの自由と前置きして
 ささやかながら…と助言する。
 こういうものではないかと思います。確かにこれは「とても上手なアドバイス」の仕方でしょう。どこか「相手に頭を下げつつお金を受け取って(借りて)もらう」というような、最近聞いたようなテクニックにも似ている気はしますが…


 しかしこうしたアドバイスができたとしても、助言を受ける側がそれでも相手の優越(感)を受け取ってしまうことは、完全には避けられないのではないかと思います。それは「自分にわからないことを相手が知っている」ことを認めなければ(言い換えますと相手の優位を認めなければ)助言がきちんと助言として働かないからです。
 そういう相手の優位をこれっぽっちも認めたくないという気持が受ける側に強ければ、どんな助言でもそこに「優越感」の影を読み取ってしまうのも人情でしょうし、その場合「理想のアドバイス」は存在できません。

塔矢:この3週間だけは先生と呼んでもらおうか
   オマエと呼ぶ相手が何を言っても聞く耳持てないだろう
 ヒカルの碁』コミックス第10巻

 結局は助言を受け取る側次第というところが大きいのだと思います。
 そして助言する側の配慮も確かにあった方がいいとは言え、助言を受ける側の心構え次第ではどんなアドバイスでも得るものがあるはずです。
 どれだけ「自慢たらたら」で「勝ち組の俺様が一言いってやる」という口調で「どうだ」と「俺流」を押し付けてきたとしても、そこで語られる情報に何か学ぶことはできますし、あるいは聞き流したり無視したりすることだって受け手の自由ということも言えるのではないでしょうか。
 アドバイスのことについては、受け取る側中心で考えたほうがいいように思いますね。


 そして何より、その背景にあるこういった感情がアドバイスする側に対してモチベーションを与えてくれるのならば、そこに出てくるアドバイスの量が増えるという大きなメリットがあります。巨大掲示板はてなエスチョン等にあるような不特定多数に対する質問の場合はなおさらです。
 玉石混交の助言でも、総量が多ければ「玉」が入っている確率も上がるのは道理。へたに「負の感情」を気にして自粛されてしまえば、優しいけれど実にならない少量の助言しか拾えないことになってしまうかもしれません。それは「角を矯めて牛を殺す」ことに他ならないと思うのですが…