江戸の祭

 今は江戸三大祭などという呼び方もありますが、将軍上覧の祭として知られていたのは山王権現日枝神社)の山王祭神田神社神田祭だけです。山王祭寛永十一(1634)年から、神田祭は元禄元(1688)年から江戸入城を許され上覧の栄に浴していました。幕府は後に出費抑制の点から、この二つの祭をそれぞれ交互に隔年で上覧される祭礼として位置づけております。三社祭は残念ながら江戸期にはこれらと肩を並べるものではありませんでした。(※山王祭神田祭には「天下祭」の異名があります)


 浅草寺の附属の社であった三社権現社は明治新政府神仏判然令(神仏分離令*1によって浅草寺から分かれ、今の浅草神社になっています。
 神社サイトの「三社祭の今昔」にも少し記述がありますが、かつての三社権現社の祭礼は浅草寺と一体のもので「観音祭」とも呼ばれていました。そして興味深いのは、おそらくそれ以前から「船祭」と呼ばれていた祭りをその一つの原型としているのではないかと考えられる点です。またこの祭礼も隔年で行なわれ、江戸中期からしばらく(42年ほど)催されなかった時もあったそうです(参考:浅草寺と三社様)。

三社権現

 三社権現とは浅草神社のサイトの「由緒」にあるように、金龍山浅草寺の創建に関わって伝説のある三人の人物を権現*2として祀るおやしろでした。流れてきた観音像を拾い上げた漁師の兄弟がそこに入られていますから、もちろん「海」に関わりがある神として考えられるのは確かです。
 明治初期の神仏分離政策で、本地垂迹説を否定するために権現号の使用が一時禁止されました。その際に神社の名称はまず三社明神社となり、その後浅草神社となって今に至っているとのこと。

舟渡御(ふなとぎょ)と祓

 船に神輿を乗せて運ぶ「舟渡御」という形は江戸の多くの祭に見られたものです。これはもともと江戸の町の形成が湊町の区画に由来することからきています。港湾から拡がった町内でも創立期の神社が海の側に残され、そこへ祭の際に後の神社からの神輿を往還するという形式があったのです。
 この舟渡御は江戸の祭りを代表する山王祭神田祭にも見られました。山王神社太田道灌の江戸館(後の江戸城)から麹町隼町、明暦の大火後は永田町星ヶ丘へとたびたび移転しましたが、御旅所はずっと日本橋茅場町(現在も摂社の日枝神社があります)に留まり、そこへ神輿が渡御していました。水運が主流であった江戸の物流を反映して、その渡御は往々にして水路を舟で渡るものでした。


 そしてこの「舟渡御」に「災厄を祓って海に追い遣る」という祓行事の意味を取ることができると考える研究者がおられます(國學院大學岡田荘司氏など)。岡田氏は「幕府によって制定された新開商業地の祭の発生も、災いを払うための信仰を基盤とする点では、古代・中世都市と共通していた」と考えられ、その「海の方向へ向かう渡御」に災いを払うための祇園(御霊会)系統の祭礼と同じ意味を見て取ります。また、さらにそこに意識されていたのは平将門の御霊というものではなかったかと岡田氏はしておられます。大手町の将門塚は平将門の祟りを畏れる御霊信仰の代表的遺跡ですが、かつてその地に神田神社も祀られていたといいます。こうした考察がうまくまとめられた時には、それこそ『帝都物語』につながるような江戸の信仰の伝統が位置づけられるかもしれません(岡田荘司「御霊・疫神が横行した 京・鎌倉・江戸」などより)。

三社祭の渡御

 それでは三社祭での渡御も、かつての「船祭」という名称にみられるようにこの祓行事としての側面を見ることができるのでは、と思われますが、実はこちらの舟渡御は方向が逆で海から陸の方向へ渡御されるものでありました。
 ここで注目したいのが、三者権現の祭神に「恵比寿神」を加えた記述を散見することです。ヱビス信仰につきましては以前に書いたことがあります(05/06/21の記事から05/06/24の記事まで連続)。そのありようは基本的に来訪神であり、初期の漁業神的ヱビスから農業神的ヱビス、さらには市場神的ヱビスへと信仰の形が変容したと考えられています。
 この三社祭はむしろこちらのヱビス信仰に形態としてははまっていると看做せます。これは祇園系統の祭(都市型・祓災)としてではなく、来訪神を祀る祭の方で考えたほうがいいと思われます。一つのポイントは渡御の向きにありますが、これがきちんと資料を見て跡付けたものではありませんので、今のところ考えの方向を示しておくだけに留めておきたいと思います。

*1:慶応4年(1868年)3月13日から明治元年10月18日までに出された太政官布告神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称(リンク

*2:仏が仮に神として現れたという本地垂迹説に基づいた「神号」