一両で死罪ならば

 江戸時代、窃盗に関する罪がとても重かったというのはよく知られていることです。「十両で死罪」というような言葉があるのはお聞きになられた方も多いはず。そのため江戸期には盗みの発生がとても少なかったということが言われています。
 こちらのサイト「江戸と座敷鷹」の「江戸期の庶民の制度」(4)より記述を引かせていただきますと、

 欠落奉公人御仕置之事
享保5年)(寛保元年極)
○手元にこれ有り候品を与風(出来心から)取り逃げいたし候もの→金子は十両以上・雑物は代金に積もり十両十両位より以上は死罪、金子は十両より以下・雑物は代金に積もり十両位より以下は入墨敲
(追加)(延享2年極)
 但し先に入牢申し付け取り逃げの品償い候においては、十両以上以下とも主人願いの通り助命申し付け、江戸に罷りあらざるように申し渡すべく事
享保21年、延享元年極)
○使いに持ち遣り候品を取り逃げいたし候もの→金子は一両より以上・雑物は代金に積もり一両位より以上は死罪、金子は一両より以下・雑物は代金に積もり一両より以下は入墨敲
(追加)(延享元年極)
 但し先に入牢申し付け取り逃げの品償い候においては、一両以上以下とも主人願いの通り助命申し付け江戸に罷りあらざるように申し渡すべく事

 確かに十両でも死罪、それどころか使いに持たせた金品なら一両でも死罪になるきまりのようです。ただし(償った上で)主人の嘆願があれば、いずれも江戸払いで済むような減刑の途もあるようですね。江戸時代の一両というのは今の価値に換算して「食べ物を基準にすると…1両=4〜20万円、労賃を基準にすると…1両=20〜35万円」(参考)という考察があります。おおよそ一両=20万円の盗みから「死罪」があったと考えれば、それはなかなかに厳しい罪だったと感じられます。
 江戸払の刑や一定の金額以下の窃盗の場合の入墨、敲(たたき)刑についてですが、これは「剣客商売の時代」のサイト、江戸時代の刑罰に詳しいです。

江戸十里四方払
 日本橋を基点に半径五里四方(20キロ)から外へ追放する。現在の船橋草加、蕨、吉祥寺、鶴見付近を円で結んだ範囲。


江戸払
 江戸から追放する。ただ、品川、板橋、本所、深川、千住、四谷の大木戸外と明和二年(1765年)に定められた町奉行所の管轄地から追放される規定のため内藤新宿や鐘ヶ淵は追放される範囲に入らない。重いものは敲き、私欲に絡むものは闕所の付加刑がある。


敲(たたき)
 苔で敲く。庶民の成人男性のみ適用。寛保五年(1745年)に採用。一時期廃止され寛延二年1749年に再度行われる。敲は50回、重敲は100回。刑執行時は罪人の家主や村、町役人が立合わされた。


入墨
 窃盗などの付加刑。古くからある刑だが一般化したのは寛保五年(1745年)に耳鼻削ぎに代えて採用された。入墨の種類は各奉行所や藩で異なる。入墨三回で死罪になる。

 他に「軽き盗いたし候者敲 一旦敲になり候上軽き盗みいたし候者入墨」というような累犯規定や、「過怠牢舎」という女性と15歳未満の男子に適用された減刑措置(敲に該当する罪を犯した場合、一敲き一日とし牢舎させる)もあったそうです。


 罪を重くしても犯罪は少なくならないというような言説が死刑制度廃止論を唱える方々から聞こえてくることがあります。確かに重犯罪については「気合が入っている」だけにある程度それは言えるかもしれません。しかし「気合が入っていない」軽犯罪において厳罰が定められているとき、そのリスクのあまりの高さに、人は罪を犯すことをためらうのではないでしょうか。イスラム法における「結婚している男女が不倫した場合死刑。盗みをした場合、左手首から先の切断」などといった規定も、近代法に慣れた私たちから見るとあまりに重い刑罰に思えますが、一定の犯罪抑止力はそこに認めなければならないと考えます。


 もちろんこういう厳罰の定められた制度下における生活が幸せなものかどうかという点では、考えてみなければならないことは多々あります。何より近代的「人権」が保障されていないのですから、そちらのデメリットも大きいかと思います。
 しかし今を考えていく上で、こうした過去を振り返って比べて考えてみるということはやはり重要なことではないでしょうか。意外なものの見え方・捉え方が、大いに参考になるような気がします。
 そして、江戸期の刑罰は単に(今の)微罪に厳しいだけでなく、「出来心から犯した者は所払なら6年以上で赦宥の対象となった」とか「罪を犯しても(未発覚の場合)12ヶ月間罪を犯さなければ処罰の対象としない」とか「15歳以下の者が殺人・放火を犯すと、15歳になるまで親類に預け、その後に遠島に処する」などといった減免の措置があちこちに決められているのも見逃せません(先の「主人願いの通り助命」などというのもこの類ですね)。


 ちなみに、先に挙げたサイトで、

捨子之儀に付御仕置之事
(従前々之例)
○金子を添えた捨て子を貰い、其の子を捨て候もの→引き廻しの上獄門
 但し切り殺し〆殺し候においては引き廻しの上磔
(寛保2年極)
○捨て子これ有るを内証にて隣町等へまたぞろ捨て候儀顕われるにおいては→当人所払、家主過料、五人組過料、名主江戸払
 但し吟味の上名主五人組家主等存ぜざる儀紛れなき候はば構いなし

 というのがありました。子を捨てることよりも、捨てられた子を(社会的に)適切に扱うことの方がかなり重視されていたということを示すものと思います。