かたはらいたし

 昨日は忙しくしていて、「慚愧に堪えない」という安倍総理の発言がああだこうだと言われていたのに気づくのが遅れました。結局言い間違いなしというところに落ち着いたと見るべきでしょうか。私は「自殺という事態を防げなかった自らの力の無さを恥じる」というあたりで読めば問題はないと思いますが、インタビューを再見して「この言葉を残念だとか無念だとかの言い換えとして使っている」>誤読だ、と思い込んだ方が意外に多かったのもわからないではないような気もしました*1。しかしいずれ微妙なものですから、鬼の首を取ったみたいに声をあげない方がよかったようにも感じます。


 おそらく幾人かの頭の中には柳美里氏の「ざんきに堪えない」発言の記憶があったのではないでしょうか。5年前の話です。

芥川賞作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんのデビュー小説「石に泳ぐ魚」をめぐって、モデルとされた女性がプライバシーの侵害だと訴えた裁判の最高裁判決が、9月24日に出ました。判決では柳さんの本の出版差し止めと慰謝料130万円の支払いを命じるものでした。
これまでにも、小説による人格侵害が争われた訴訟は、三島由紀夫の「宴のあと」、舟橋聖一「白い魔魚」、城山三郎「落日燃ゆ」、清水一行「捜査一課長」などがありますが、作家側勝訴するか、賠償命令が出るかで、「出版の差し止め」というのは初めてのケースです。
その判決を受けて午後3時から記者会見を行った柳さんは、
「判決は表現の自由を著しく侵害するものと言わざるをえず、慙愧(ざんき)に堪えない。」
と答えました。(後略)
 (道浦俊彦/とっておきの話 ◆ことばの話862より)

 これは明らかに文脈がおかしな言い間違いとできるケースでした。他を批難する言葉として使うのはさすがに無理なのです。今回はこれに比肩できるような単純なものではないでしょう。


 言葉は生き物とされ、言い間違いが主流となってそのまま定着してしまうケースもまれなものではありません。昔、予備校で古文を教えていた頃にはそのネタに不足することはありませんでした。話すとけっこう皆が驚いてくれるものでは、

 「あたらし」という形容詞は「新し」ではなかった。
 「新し」はもともと「あらたし」と読むもの。
 これが言い間違えられて「あたらし」でも通用するようになった。
 ただし音転倒が起きたのは平安以前のことで、これを誤用と見なくても何の問題もない。
 「あたらし」は上代ではもっぱら「惜し」という形容詞の方で使う読み。
(その後もこの言葉は消えていない)
 漢字の通り「あたらし」は惜しいという意味を持ち、「あたら若い命をなくして」
のような語幹の用例が今も残っている。

 というものがありました。


 また、現在ほとんど定着している顕著な言い間違いに「かたはらいたし」があります。これはもともと「カタライタシ」と発音されるべきで、「傍痛し」なのです。
 「そば(傍ら)で見ていてはらはらする、いたたまれない感じを受ける」のがこの語のもともとの語感で、これから、相手の動作に対しての感情として「みっともない」「気の毒である」、自分の動作が見聞きされて「恥ずかしい」などの意味が出てきます。
 たとえば、自分のサイトでろくにできてもいないことを他の人のところに行ってご立派そうにとうとうと語るブロガーは「かたはらいたい」のです。ダブスタがいけないというより、それは見ていて恥ずかしく、気の毒に思えたりするというもの。
 この誤用には定型化した時代劇の悪人の台詞が大きく影響を与えたのではないかと思っていますが、少なくとも「片腹いたし」などと表記することだけは避けるのが無難でしょう。それはやはり恥ずかしい(=かたはらいたき)ことなのですから。

*1:インタビューでの口調から。でもこれを文字化したときにはこれでは簡単に突っ込めません。