仏教と女性差別

 かつてアメリカのフェミニズム(というよりウィメンズ・リブ)の運動で「なぜキリストは男なのか」という疑問(と批判?)が語られたことがあったといいます。これが日本では「女性は仏陀になれるのか」という問いになって語られることはあるかもしれません。
 仏教の教義自体が非常に広範なものである以上に、それが混淆的で融通が利くものだけに、寛容さと同時に差別的な国情があればそれに合わせる無碍さが裏目に出るということはあると考えられます。実際、現実の教団や宗派、寺院などにおいて女性が不当な扱いを受けていた(る)という情報は現在でも散見するところ。
 しかしこれが仏教の教義的な(つまり本質的な)ものかということについては、仏教学者の否定的な意見があり、「女性が仏陀になること」は可能とされています。

 …仏陀は本来男女その他の相対的区別を超越しているのであるから、女性は仏陀になれるし、仏陀になったときには男でも女でもないわけである。
(梶山雄一「仏教における女性解放運動」、『現代思想 1977 vol.5-1』所収)

 仏教ではたとえば「五障三従(ごしょうさんしょう・ごしょうさんじゅう)」などのような女性を卑下する言葉も聞かれ、女性蔑視があるのではないかとは時々聞く言葉。五障三従は、女性は成仏を妨げる五つの障害と三種の不自由を生まれながらに持つという考え方です。具体的には、女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王仏陀になることはできず(五障)、幼時は親に従い、嫁すれば夫に従い、老いては子に従わなければならない(三従)ということです。
 「三従」は、『礼記』や『孔子家語』に表れることから中国起源とも言われたりしますが、これはインドの『マヌ法典』、仏典では阿含部に属する『玉耶女経』にも見えるのでインド起源と考えられます。また「五障」についても『中阿含経28』、『増一阿含経38』、『法華経提婆達多品』などの所説としてあり、岩波の仏教辞典では

 インドにおける女性差別の思想が仏教に入りこんだもので、日本において一段と強調され、ときに女人成仏の思想と拮抗するにいたった。

 と解説されています。
 梶山雄一氏は先に引いた小論で「五障三従」説の成立はブッダ滅後のかなり後代、西暦起源紀元をあまり遡らないころの成立と推測され、さらにはこれを

 この五障説の成立は、シャーキヤ・ムニの滅後まもなく起こってきた「ブッダの神格化」の現象と密接に関係している。

 と考えられるのです。すなわち、歴史的存在としてのブッダの記憶が消えた後にも宗教教団が維持され、その神格化(超人化)が起き、その時点(部派仏教の時)で女性が仏陀になることはできないという説がでてきたというのですね。
 ところがこの原始教団の時には、修行する比丘・比丘尼たちが目指すのは阿羅漢の境涯であって、男にしても女にしても仏陀になること(成仏)は目的とされていなかったものですから、それが問題となってきたのは宗教改革運動である大乗仏教(運動)が興起してきたときとなります(参考)。
 大乗は「ブッダに帰れ」ということを旗印にした小乗(部派)仏教批判の運動でありました。それまでの仏教の修行者が阿羅漢となるのを理想としたのに対して、大乗では自らを菩薩と名乗り、信者がみな仏陀となることを理想としたのです。成仏が理想となれば、女人成仏を否定する五障説は教えの妨げになってきます。そこで大乗思想では様々にこれを乗り越えようとしたのでした。
 その乗り越えはまず「変成男子」タイプのもの、つまり女性は一度男子に変身した後に成仏が可能になるというものとして描かれました。ここに挙げられるのは『八千頌般若経19』、『三昧王経32』、そして『大無量寿経』の法蔵菩薩(のちの阿弥陀仏)のいわゆる四十八願の中の「変成男子の願」、さらには『法華経19』の「龍女成仏」の所説などです。
 後には、端的に男女の本質的な不二平等を主張するものも現れてきます。こちらに属するものとして梶山氏が指摘されるのは、『勝鬘経』のシュリーマーラー夫人のエピソード、浄土教の基本経典である『観無量寿経』でのマガダ王妃韋抵希(イダイケ)夫人*1の悲劇、『維摩経』の天女とシャーリプトラとの問答などです。また、その『勝鬘経』や『如来蔵経』に見られる「タターガタ・ガルバ(如来蔵)」思想は、あらゆる有情(衆生)は仏陀の胎児、仏陀の本質を蔵しているというものですが、なにより「ガルバ」は子宮を意味することから、この思想の周辺に女性蔑視の考えは微塵もなかったと考えてもよいでしょう。(一説によれば、この如来蔵思想は南インドの母系社会で展開してきたともされています)
 さらに大乗が「空の思想」として磨かれてきた後には、基本的にジェンダーとしての男女の差異は無であるということにもなりますから、いよいよ差別的な内容は消えてきていると考えられるのです。

 …空の知恵は仏陀の本質であり、その本質は男でも女でもない。男女の区別は幻や夢のような化現にすぎない

 梶山氏が描かれたのは、原始仏教の時には無かった五障説が小乗の時代に成立し、この説を克服するために大乗の諸経典がたいへんな努力を払ってきたという歴史なのです。


 いずれにせよ仏典には女性差別的なものもあればそれを否とするものもあるということですし、一概に差別的か否かをいうことはできないというのは確かです。さらに付け加えれば、大乗の経典を重視しその思想に共感するならば、そこに女性蔑視は見られないということも言っていいのだと思います。
 教義は無矛盾ではなく、最終的に問題となるのはそれを受容する人の心だということなのでしょう。

維摩経(参考)

 梶山雄一氏が引かれていた維摩経の一節です。(『大乗仏典7』中央公論社、より)

 ヴィマラキールティ(維摩)が、その病気見舞いに訪れた菩薩や声聞たちと問答をかわしているとき、この家にひとりの天女がいた。これらの菩薩大士の説法を聞き、喜び満足して心を奪われ、自分の実際の身体をあらわして、天の花をこれらの大菩薩、大声聞たちの上にふりかけた。すると、菩薩たちの身体にふりかかった花は地におちたが、大声聞たちの身体にふりかかった花は、そこにくっついて地面には落ちない。大声聞たちは神通力をふりしぼってこの花を振り落とそうとするが落ちようとはしない。
 そこで天女が長老シャーリプトラに云った、「大徳よ、この花を振り落としてなんになさるのですか」。答えて云う、「天女よ、これらの花(で飾ること)は、(出家の身には)ふさわしくないことですから、取り去ろうとするのです」。
 天女が云う。「大徳よ、そのようなことをおっしゃってはなりません。なぜかといえば、この花は法にかなったものです。その理由は、この花のほうでは考えたり分別したりしないのに、長老シャーリプトラこそが、思慮し分別しているからです。大徳よ、出家して善説の法と律とのなかにありながら、思慮し分別するならば、それこそ法にかなわないことなのです。長老は(法や律について)はからいをめぐらし分別していますが、思いはからうことのないことこそが正しいのです。
 大徳よ、ごらんなさい。思慮や分別を離れていればこそ、これらの菩薩大士の身体には花が付着しないのです。たとえば、恐怖をいだいている人ならば、そのすきを悪霊がねらうでもありましょう。それと同様に、生死輪廻の恐怖におののく人に対しては、色や声や香りや味や触れ合うことが、そのすきにつけ入ってくるのです。もし形成された諸存在(有為)への煩悩に対するおそれを去った人ならば、その人に対して、色や声や香りや味や触れ合うこと(という五欲)が、何をなしうるでしょうか。(愛着によって)薫じつけられた習慣をいまだ断ち切れない人には、花が付着しますが、それを断っている人の身体には付着しません。ですから(菩薩たちの)身体には花が付着しないのです」…


 また(シャーリプトラが)問う。「天女よ、愛欲と怒りと愚かさとを離れるからこそ、解脱があるのではありませんか。」天女が答える。「愛欲と怒りと愚かさを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです…」


 (シャーリプトラが)言う。「天女よ、あなたは女性としてのあり方をかえて(男性になって)はいけないのですか」
 答えて言う。「私は十二年間、女性であることを探し求めてきましたが、いまもってそれが得られません。大徳よ、魔術師が女の姿を変現したとして、これに対して女性としてのあり方をかえてはなぜいけないか、などと質問したら、これはどういうことになりましょうか」…


 そのとき、天女は神通を行なったので、長老シャーリプトラはこの天女とまったく同じ姿になり、天女はまた長老シャーリプトラと同じ姿になった。そこで、シャーリプトラの姿になった天女が、天女の姿になっているシャーリプトラに向って尋ねる。「大徳よ、女性であることをおかえになっては、なぜいけないのですか」
 天女の姿となったシャーリプトラが云う。「男の姿が消えて、女の姿になったのですが、どうしてそうなったのかわかりません」
 (天女が)云う。「もし大徳が、女の姿から再転ができるのなら、あらゆる女も女であることをかえうるでしょう。大徳が女としてあらわれているように、あらゆる女も女の姿であらわれているのです。その意味で世尊は、あらゆる存在は女でもなく男でもない、とお説きになりました」


 そのとき、天女が神通をやめると、長老シャーリプトラは再びもとの姿にかえった。そこで天女が云う。「大徳よ、あなたがなっていた女の姿は、どこへいったのですか」
 (シャーリプトラが)答える。「私は(女にも)ならず、またかわったわけでもありません」
 (天女が)云う。「それと同じく、あらゆる存在も、つくられることもなく、かえられることもありません。つくられることもなく、かわることもない、というのが仏陀のおことばです」

*1:阿闍世王の母