「生理的に…」

 まだ私が小学校低学年ぐらいの時、母と街を歩いていてやけどで顔貌が変わってしまっている女の人とすれ違ったことがありました。通り過ぎた後で母に「あの人お面かぶってるみたいだったね」と話しかけた際、母から手ひどく叱られました。今から考えると、まだこちらの声が届くかもしれないタイミングで心無いことをしゃべってしまったものだと思います。あの方は(服装から女性と判断されました。決して年老いた方ではなかったはず)やけどの痕をそのままに普通に歩いておられました。何があったのか、どうお考えだったのかはわかりませんが、堂々とした態度を取られていたのに、お馬鹿なガキの声が聞えてしまっていたとしたら本当に申し訳ないです。
 その時自分は嫌な感じを受けたのではありませんでした。ただ「おかしな」感じを受けたことを「素直に」話しただけなのですが、そういう些細なことがもしかしたら無慈悲な攻撃になってしまっている(かもしれない)ということを学んでよかったと思います。率直さで正当化できるものではないのですから。


 少し大人になって、高校生の頃でしたか『エレファント・マン』の映画を見ました。デヴィッド・リンチが監督したモノクロ仕立ての映画です。たしかその前だったかにジョゼフ・メリックについての書籍も読んでいましたので、どういうものかは意識して見たと思います。
 メリックに対してあからさまに嫌悪の表情を見せ、酷い言葉を投げつける人びとがいるというのがとても悲しく思われたのを憶えています。


 さて、最近「生理的に受け付けない」とかいう言葉が人に向けてやたら軽く使われていると感じるんですがどうでしょう? そしてこの言葉を見聞きする時に、それについて周囲が異様に寛容なのは(そう見えるのは)どうしてなんでしょう。
 誰か人に対して「生理的に受け付けない」などという言葉を吐くのは、よほど酷い拒絶の言葉だと思います。取り付く島もない手酷い言葉です。単純に「嫌い」といえばいいような時でもこんなカゲキな言葉遣いをするのはやめるべきではないでしょうか。それは無意味に人を傷つけます。


 この言葉、聞くところによると好みではない人に言い寄られて勘違いされては困る時に使い始められたとかいう話もありますが、それだけにはとどまらない使われ方を散見します。そしてそれにしたって…と思うわけです。
 この言葉に対して私が一番嫌な感じを受けるのは、それが言い訳じみて聞えるからです。それは「生理的」なものだから仕方がない。自分の所為じゃない。嫌いという負の感情を持つ私は悪くない、なぜならそれは「生理的」なものだからとか…。さらには、そのまったく個人的な嫌悪感に他の人の同意を求めようとする人がいるのには唖然とするしかありません。
 「生理的」というのは「生得的・生まれながら」というのとは全く違います。生理的反応・感情でも後天的なものはいくらもあります。それで自分が免責されるなどという魔法の言葉ではありません。


 嫌いとはっきり言う自分。好みじゃないと拒絶する自分は見せたくないのかもしれませんが、この言葉に馴染まない者から見ると「生理的に受け付けない」などと人に向って平気で言葉を投げつける人間の方がよほど醜悪に見えるのですが…。そして何より、そういうのに鈍感になって平気な周囲ができてしまっているのがとても悲しいことに思われます。