noon75氏への批判に関して

 tot-mainさん@泣き言メインの「[讒]無意識の差別」という記事についてです。
 この記事ではnoon75氏の記事「知性なき「はてな」(2)−乞食より貧しいはてなブックマーカーたちの精神」への批判がなされています。私も実は当該記事には批判的だったのですが、どうも私が読み取ったポイントとtot-mainさんのそれがかなり違うもののようで、少しもやもやしたところを書いてみます。


 tot-mainさんは当該記事を

 「物を持つ物は、物を持たざる物の真似をしてはいけない」

 という主旨の元記事およびはてなブックマーカー批判と受け取られて、

「私は彼らとは違う階層の人間だから知ってはいけない」ってのは現代における倫理的な思考方法だろうか?


私はこの考えに「否」と答える。

 

むしろ、これを「痴」もしくは「恥」と感じるのならば、そこに見えない差別があるのではないかと糾弾せざるを得まい。


自己の階級を絶対な物としているのではないか?



これを差別と思うのは、自分の所属している社会が上だと勝手に認識しているのではないか?

 と問われています。
 私はむしろ「こういった読まれ方もしたのか」とびっくりしたぐらいでした。私の読みでは、

 自分では何も失うことなく、たかだか三日間ホームレスの人の真似をしたぐらいでその心情を「わかったつもりになる」なんてお安い良心があったものだ。しかもそれに「感動」して賞賛するなんて、なんてはてなブックマーカーというのは安っぽいものだろう。

という批判がそこにあったのだと思えます。これは当該エントリーの

そしてこの人物は、食事にも住居にも、何一つ不自由しない身分を保ったまま、ホームレスたちの中に忍び込み、そのマネゴトをして、たかだか三日足らずに過ぎない体験談を、嬉々としてネットで語るわけである。


むろん、このような好奇心旺盛なだけで人の痛みを理解しない、まったくもって想像力が欠如した人間、この社会において居場所がないとはどのようなことを意味するか生まれてから一度も考えたことのない、ノーテンキで無神経な人間は、どこにでもいるのであり、別にそのような人間がいること自体、珍しいものでもなんでもないだろう。


しかし、私が驚いたのは、このエントリについたはてなブックマークのコメントである。

というあたりからの私の理解です。
 つまりここでnoon75氏は「体験してみました」という人よりも自分をホームレスの人に近い位置において、「そんなもので何がわかる」という冷笑的な批判を展開しているのだと受け取れたのです。


 この想像力の働かせ方は決して「ホームレスという階級(?)」を下のものだから理解しなくてよい、といった類の方向ではないと考えます。ほのめかされているのは「実際には体験せずとも体験者の手記を読むことで追体験という幻想を持った人間」に対する「実際に体験した者」のような、そんなものでわかるか馬鹿…というような(ちょうど不幸自慢の人が持つような)視点でしょう。


 私の批判点はまさにここらへんにありまして、「お前はわかっちゃいない」的なことを言っているだけなら不毛だろうと思うのです。本当にわかっているならあなたがそれを書けばいいことで、稚拙なやり方とは言え「何かやろうとした人」をそうやって貶めているだけの行為に何の意味があるの?という感じの感想をまず持ったのでした。


 noon75氏の批判にも一理あるのは確かだと思ってしまうところもあります。財布を持たずに野宿しただけで(しかもいざとなればお金も宿もなんとかなる背景のままで)そこに行って、いきなり追い詰められてそういう状況にある人のことがわかる、わかったと思うのは安易ではないか、傲慢ではないかという感覚です。ただし、私はそれを言っちゃあおしまいだよと思うところもありまして、確かにそこには「擬似体験してみた彼の感想」があるわけですし、それ以上のものを自分が出せないのなら口も出さないでおこうと思う気持がありました。
 この批判が確かにホームレスをやっているだろうブロガー、たとえばミッドナイト・ホームレス・ブルーの武州無宿・健次郎さんのような方から出たならば*1、私はすんなりその批判をもっともだと思ったかもしれません。ただこれはnoon75氏の批判が頭で考えた批判で、しかも謂れもなく自分をホームレスの人の立場により近い(世間を知った)者と置いているような気がして、そこに反感を持ったのです。
 ブックマークコメントを残した人たちも、ひとしなみにナイーブな方ばかりとは思えませんでした。そこらへんはわかった上で、「体験してみようと思ってそれを行なった者」に対する暖かいまなざしを持っていた人も半分ぐらいはいるのではないかと見えたのです。


 いずれにせよここには「階級を上に感じている者からの視点」などというものはなく、むしろ「自分の方が知っている」という感じの「下からの(かつ優位に立った)視点」があるのではないかと思うのですがいかがでしょうか?
 言うならばそれは「無意識の差別」ではなく「無意識の逆差別」みたいなものだと考えたのですが…

*1:おそらく健次郎さん自身はそういうことを言う方ではありませんが