追記『滝山コミューン一九七四』
最近の記事だけ少し辿って、この本の書評で面白かったものをいくつか
日記(佐藤亜紀)6/14 経験の追想に基づくはっちゃけた感想。面白い。 送信完了。「原武史『滝山コミューン一九七四』は侵略モノSFの傑作だった」 眼の付け所が鋭く、表現がうまい。先日読み終わった時、「まるで侵略モノジュブナイルSFの世界だな」と思った。(「しかしあの赤化教育はなんだったんだろう 」にも) 秋月瑛二の「団塊」つぶやき日記−FC2版 読売新聞の書評(佐藤卓己)に対する応答私は「戦後教育の欠陥」は「行き過ぎた自由」というよりも「行き過ぎた個人主義」ではなかったか、と思っている。ということは、「個人の尊厳」が尊重され過ぎた、ということでもあり、書評者の理解とは正反対になる。日曜新聞書評欄簡単レビュー 朝日新聞の書評(北田暁大)の紹介 【書評】『滝山コミューン一九七四』原武史著 イザ!での書評(片山杜秀) 追記:はてブで見つけた滝山コミューンへの言及 『滝山コミューン』で見つけた鬼のパンツ:[mi]みたいもん! (私はこの「鬼のパンツ(フニクリフニクラ伴奏)」は全く聞いたことがなかったです。それにしても、はてブ界隈でこの本の評が聞こえてきませんね…)
実際、さまざまな局面で私たちは「集団」だの「場」だのにいるわけです。孤高を気取っても、決して本当に一人で生きていけるわけではありません。でも同時に、自己というものを意識する以上、集団・場といったものとの齟齬が生まれてしまうのは仕方のないこと。必ずどこかで折り合いをつけ、或いは妥協し、或いは場を変え、何とかそうしたものと共に生きているのです。
もともと人の集まり(国・社会・地域・家族…)といったものの中から「個」は形成されるのですが、だからといってその集団の中に個が埋没したり、その中に解消されてしまうといったことは望まれないはず。それが近代的自己意識なのだと思います。だから自己は常に集団というもの、あるいは集団主義といったあたりと葛藤を繰り返さずにはいられないのですね。
集団や場を大切にして、そこからのメリットを享受するということが必ずしも「集団主義」というわけではないでしょう。ただ「個」が「個性」を求める以上、集団との摩擦は付き物です。それをどこまで許容するかでその集団なり場なりの性格は変わってくるのだと思います。
できるだけ度量の広い集団にいたいという気持ちと、できるだけ集団らしさの利点を享受したいという気持ち、これは本来両立が難しいものなのかもしれません。でもどちらも求めるのが人の常ですし。
皆が理想の集団などないという(おそらく正しい)認識をしていれば、「集団主義」的傾向は抑えられるのではないかと思います。でも、それはそれで寂しいことだなあと…。
(※私の本への感想などは前日の記事に)