セクハラ…

 pal-9999の日記の「男性が結婚しにくいケース」と、「セクハラについて」を読んで、pal-9999さんの表現がちょっと微妙なんじゃないかと思いました。

 要するにだけど、セクハラというのは、「やられると不快度が高い男性のタイプ」と「やられても不快度が低い男性のタイプ」があるってことね。

セクハラについては、やられても不快度が低いケースがあるってのは、実は日本でもアメリカでも確認されている。

それと、女性の10〜15%前後は、セクハラをほとんど不快に思わないそうだ。

 これらの表現に出てくる「セクハラ」は「セクハラ様行為」とでも言いましょうか、受け取り方によってはセクハラと認定もされるような行為、ただしセクハラと判断される以前の行為のことを指していると思われます。
 それを「セクハラ」と断定しているように見えるので、b_say_soさん他ブックマーカーから突っ込まれているのではないかと。つまりそれが「セクハラ」なら「不快なもの」なので、「不快に思わないセクハラ」というのは語義矛盾なわけです。
 「セクハラについて」で引用されている実験でも、実験の企図はおそらく「同じ行為についてセクハラと感じるか否かの感受性の違い」と言いますか「セクハラという判断を下すにあたって、客観的に同じ行為をされた場合にも、その前段に何らかの(行為以外の)判断が関与していないか」というものを調べるところにあったように見えます。
 ですからそれを

1、同じセクハラでも男性の社会的な地位によって女性が受ける不快感は同一ではない。

 とまとめてしまうのには難があります。これは「同じ行為でも…」というようにしなければならないのでは?
 セクハラということにしてしまったならば、これでは「打算でセクハラでもOKみたいな女がいるよ」という話になってしまうのです。そうではなくて、対象の属性や好感度その他、セクハラと感じる感受性には客観的な行為以外の要因が働いているということをこの実験も、palさんもおっしゃりたいんじゃないですか?
(元論文でセクハラを受けたときの不快感に違いがある…というような不用意な表現があったとしたら私の推測は外れなのでごめんなさいなのですが、十中八九そういう表現はとられていないような気がします)


 で、実際セクハラ認定において何らかの「先入主」が働くというのは確かにあるとは思うのです。何もそれは打算ばかりではありません。年齢が若いかどうか、自分の好みかどうかという嗜好だって関わるでしょうし、その人との関係性とか今までのやり取りとか、案外さまざまな要因がありそうだと考えています。その点をpalさんが語られているのでしたら、賛意を表します。
 思い出したのですが、昨年セクハラについて次の引用を使って記事を書いたことがありました。(もうすでに下に引いたコラムはネット上から消えていますが)

 「A部長がセクハラ? ヨシ私が何とかしてあげるから具体的に話してくれる?」。Kさんは女性部長なので、他部の女性社員からもよく相談をうける。


 その日相談に来たBさんはいきなり泣き出した。「身体に触られたり、ヘンなことを言われたの?」。Bさんはかぶりを振る。「ヌードポスターなどが貼(は)ってある?」。それも違うらしい。「A部長がいやらしい顔で……」「胸をじっと見たり?」「ちーがーうーんです。顔そのものが、いやらしいんです」。Kさんは困った。「顔がいやらしいといわれてもね」。何とかしてあげられるものではない。(中略 強調は引用者)


 じっくり話してみると、根は深かった。A部長は派遣社員をやたら取り換える。「派遣は所詮(しょせん)使い捨て」が口癖だ。セクハラまがいのことを言って反論したら「取り換え」る。


 総務に相談したが、「派遣が条件に合わなければ取り換えるのは当然」と言われ万策尽きたBさんは多くの派遣社員の声なき声を代表してKさんを巻き込み「社員からのセクハラ相談」の形で逆襲を企てたというわけだ。(後略)
(「ハケハラ」毎日新聞 2006年7月15日 東京朝刊のコラム)

 A部長の行為にあやしげなところがあった…ということにされていますが、何よりまずここでK部長はBさんを叱るべきではなかったかと思うんです。「顔がいやらしいからセクハラだ」と訴えること自体が、A部長に対するハラスメントではなかったかと私には感じられます。
 こういうことすらあるのですから、セクハラと判断される時には「客観的行為」以外の先入主が当然働いてしまうものではないかと思うんですね。