罪と罰に関して

 光市の母子殺害事件の裁判や少年法の存否の討論番組など、少年犯罪についていろいろ話題になっています。このあたりについて私は「藤井誠二のブログ ノンフィクションライター的日常」をちょくちょく読ませていただいて、いろいろ考えさせられています。先日の記事では、藤井さんが書かれた『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』についての書評が紹介されていて、次の部分がとても印象的でした。
「赦す被害者」のモデルを、理想型として作り上げることの暴力について+和田秀樹さんの書評 より

 犯罪被害者の声をまずは徹底して聴くこと、次にはただ聴くだけでなく対話をすること。と言ってしまうとあまりに安易に響く。自分に都合がわるいかも知れない話を聴くことは苦痛であり、返すことばがない、と言ってしまう方が楽だ。
(中略)
 自分自身の立っているところで、次に考えなければならないのは、被害者への赦しの強要、という問題である。私はキリスト教徒として「赦し」について厳しい問いを突きつけられたと感じている。


 鈍感なキリスト教徒は、傷つけられて苦しんでいる人にも、すぐに赦しを強要する。
 キリスト教徒が怒りをあらわにすること自体を許さない。


 むかしむかし、教会のなかで、ことあるごとに対立点を明確にしようとしていた私に、ある教会員から「聖フランチェスコの平和の祈り」が書かれたはがきが届き、怒りを通り越して、思い切り脱力してしまったことを思い出す。


 「修復的司法」もキリスト教人権派が大好きなもののひとつである。
 私個人の立場は、藤井さんほどは否定的ではない。
 しかし、きちんと謝罪を示すことができたかどうか、また被害者が赦してくれたかどうかが刑期に大きく関わってくることに対しては、疑問を持っている。


 何より、「赦す被害者」のモデルを、理想型として作り上げることの暴力については、自覚すべきだろう。「赦す被害者」になれない、なることを自分に許すことができない被害者の存在を強く示したことが、鈍感な日本社会、なかんずく日本のキリスト教会への本書の大きな貢献であると思う。藤井さんはべつにキリスト教徒に向けてメッセージを送ったつもりはないだろうけれども。

 私も、「許す」ということの深さには感動するものの「許せ」という指示はどうなんだろうと思ってきました。それは言うべきではないのでは?という感覚です。
 許そうと思って許せるものではないと私は思います。許すのは「分別」ではなく、その悲劇なりなんなりについて傷ついた自分が再構築・再統合される過程での副産物のようなものかもしれないと考えるのです。理性や理屈で「許す」ことを目的として…というのには、どうにもうそ臭さを感じてしまいます。


 「申し訳ありません」という謝罪の言葉は、言い訳・弁明の余地は全くないという徹底した自己放棄による寛恕の希求です。これはお互いに言い分を挙げあって対話するという態度ではなく、すべて下駄を預けてご存分にという態度です。どこかケンカに負けたオオカミが喉笛を上に向けて参ったと示す態度に似ていると思います。
 これが謝罪として受け取られるのは、判断をすべて被害者側に任せて、そちらの方で気が済むようにする自由と時間を提供する態度だからではないでしょうか。そして被害者の気が済むというのは、受けた心の傷をあるいは癒し、あるいはそのままに自己を再統合するという行為なのだと考えます。その被害の程度にもよりますが、失ったものは取り戻せないとか、何を以っても償われるものではないとか、そういうことを自ら「納得」できて(言い換えるならそれを含めて自己の世界を再構築できた時)許しというものが初めてそこに現れるんじゃないかと思うのです。


 そういう意味では、諸宗教が指示する「赦せ」という命令を素直に受け取る人はどうなのかと考えていました。それはむしろそのままの自分では許すことが不可能だということを考えさせる逆説的な装置なのかもしれないとも思っています。つまり「変わらなければならないよ」という暗示なのかと。
 ここらについてはまだまだ考えなければならないのですが、ともかく上記引用が非常に心に響いたということだけ書き留めておきたいと思います。