科学の心

 読み流してしまったので正確な引用ではないのですが、最近読んだあるサイトで、似非科学を批判する類の記事に「これが成り立ったら物理法則が全部ひっくり返ってしまうぜ〜」みたいな書き方がされていました。よく聞く言い方ではありますが、この揶揄はここで適当なんだろうかと一瞬疑問に思いました。
 ここでは科学(というか物理学)の作っている世界観と似非科学と呼ばれるようなものが作っている世界観が対置され、片一方の支持はもう一方の否定といった構図が取られていますが、これは常に言えるものではないと考えます。言い方を変えますともっと科学(的思考)は柔軟だろうと、どんな事実をも*1否定せず飲み込んでしまう*2のが科学じゃなかったかと思えるのですが…


 地球温暖化の原因を温室効果ガスに求める考え方が広まっています。テレビの啓蒙コマーシャルも一つ二つではありません。でも私にはこれは今最も蓋然性が高いと思われている…以上のものにはどうも思えないのですね。前から何度か書いていますが、地球の気候変動、特に氷河期と間氷期の繰り返しといった気温変化についての理論的説明は未だ仮説段階を過ぎるものではないはず。今の温暖化についても温室効果ガス以外の要因が働いているとして(温室効果ガス影響しているとしてもよいのですが)、それが未だにわかっていないと考えても何の障りもないはずです。理論的には。


 今後二酸化炭素排出に劇的な歯止めがかかって、他の温室効果ガスも目に見えて減少していっているのに地球温暖化傾向に何の変化がなかったとしても、科学(的思考)というものならば「あれ、温室効果ガスが主要因じゃなかったんだね。じゃ本当は何なのか調べてみよう…」とあっさり他の要因を探す方にいくはず。
 それが科学じゃないんですか? 私はそう理解しています。


 むしろ地球温暖化温室効果ガスが唯一絶対の原因だ!と信じきって、京都議定書にサインしなかったアメリカを叩くとか、オーストラリアを悪者扱いするとか、中国が問題だとするとか…そういう短絡的思考に走る人たちこそ科学的思考というものからちょっと遠いところにいるように思えてなりません。
 それは信念であり、場合によっては政治みたいなものです。アル・ゴアは政治的には正しい態度、戦略を採っているように思えますが、決してあれを科学的と思いこむべきではないというのが正直な感想です。


 同様に、きわどい部分も含みますが、一つやそこらの物理現象が従来考えられているものと異なったからといって、すぐに世界観がひっくり返ると思う必要もないはず。今までの理屈で説明できないデータをまず疑うのは正しい態度かもしれませんが、絶対に否定しなければならないなどと頑なに信じるばかりが道でもないでしょう。本当の科学的な思考は、その新しいデータが事実ならば、それを含んださらに大きな理論・世界観を構築する方向に動くはずです。(ただ「きわどい」といいますのは、そのデータ、事実の検証がぬるいままに新しい大きな理論を組み立ててしまうというのも似非科学的錯誤にはまってしまう科学者にありがちなことで、19世紀の心霊術の流行とそれにはまった物理学者の例などもこうした類の錯誤だったのかと…)


 たぶん科学は貪欲で懐が異様に広いものだと思います。その節操のなさは味方としては頼もしい限りです。どれだけ間違い・勘違いがあっても最終的に正しければいい、正しくなり得るという柔軟な姿勢があるからです。そしてこういった認識は、私にとって歴史修正主義というラベル(レッテル)嫌いの態度と直結しているものなのですが、ここらへんの脈絡は他の方にわかっていただけるでしょうか…。

*1:もしそれが事実なら

*2:それをひっくるめて体系の内に取り込んでしまう