メンタルとソーシャルの間

 「格差」とか「貧乏」の問題は社会システムの改変に絡めてよく語られます。でもここにも実は承認の問題が存在しているはずです。30過ぎでバイトとは情けないとか、一人前ではないとか、そういう声が生き辛さを作るものですし、人並みのモノが持ちたいとか、結婚生活を支える金がないからできないとか、そこらへんにも実際に社会的承認が得られない(と考えてしまう)苦しさがあって、それがあればこそ事は重大だと言えるのだと私には思えます。
 つまりソーシャルな側面だけでなくメンタルな側面もそこにあるわけで、ただ単に収入が低い人にお金が回れば解決するというものではないということです。ところがこれらの問題をメンタルな面を前に出して語ると、やれ欺瞞だとか格差の維持を肯定しているとか、必要以上に叩く人が多いようにも見えます。
 内田樹氏の「格差社会って何だろう」というエントリーは、「格差」とか「貧乏」の問題をメンタルな側面で捉える限りにおいてかなり正鵠を射たものだと感じますし、限定付ではありますが私は重要な指摘が含まれていると考えます。


 ところが非モテとかの話題になりますと、逆にそれはメンタルな面での解決で事足れりとする人が多く、それだけで十分なのかなと時々疑問を感じるのです。これは私にへそ曲がりなところがある所為かもしれませんが、以前に「非モテ論議と格差社会論議は意外に似ている」というエントリーを書いたこともあり、実はそこにソーシャルな解決のきっかけはないか考えることがあるのですが…


 いずれにせよ現実の問題は多かれ少なかれメンタル面とソーシャル面の両極で考えなければいけないところがあって、その両方の視点が必要とされるというものでしょう。どちらかだけで十分だと簡単に言えるものではないような気がしています。
 id:setofuumiさんからいただいたトラバとそこで引かれていた他の方のエントリーも参考になりましたが、メンタル面でのライフハック的なものの重視で問題の解決がすぐに図られるのか、もう少し考えていかなければならないと私自身は思っているところです。

 …愛の本にバイブルに、神さまにロックにダンス。なにが魂を救えるかわからんです。
 (『アメリカン・パイ』)