夢枕

 夢枕に立つって言うじゃないですか。誰か亡くなった人とかが夢に現れてくるものです。うちのおばあちゃんなんかよくそんな話をしていて(小学校まで祖父母と川の字で寝ていたもので…)、それをきっかけに祖母が小さかった頃の話とか知り合いの誰々さんの話とかいろいろ話が聞けました。
 こういう事をいうのがおばあちゃんだと思っていたのですが、その後祖母が亡くなってかなりしてから母も同じようなことをいうようになってきました。今の私よりは上の歳ですが、それでも60になる前ぐらいだったと思います。(ちなみに母は今70を過ぎていますがまだ仕事ができるぐらいしっかりしています。春先にはガンの手術がありましたが…)


 おばあちゃんが夢枕に立った。何か話したいことがあるんじゃないか…。そういう気持ちを一概に馬鹿にすることなどできません。そうかもしれないねと言って、聞けるときには話を聞きます。自分で本当に信じているとは言えませんが、頭から否定しようなんて考えたこともありませんでした。


 普通の人がごく自然に超越的なものについて語るということは昔はもっとあったはずです。そしてそういう方々は迷信深いのかもしれませんが、わりに信心は厚く、仏壇や神棚の水を替えたり亡くなった人のことをずっと尊重したりと、私には頭が下がるという感じに見えます。こういうものが継承されなくなるのは、何となく無くなってしまうなら仕方がないとも思うのですが、どこか残念なことだと感じてきました。


 宗教的なものが話題になるとき、大体が「騙し」に絡んで語られることが多いような気がしますが、そういう騙す奴の側でしかものごとを見ないのはどうなんでしょう。そういうものにわりに引っかかってしまうような、そんな普通のおじちゃんおばちゃんの心情というものは考えなくてもいいのでしょうか。
 詐欺師みたいな加害者がいて被害がある。もちろんそういうのには腹が立ちますが、啓蒙とかによって消し去られるべきではない素朴な感情も時々は考えてみるべきじゃないかと、個人的には思います。
 騙されて鴨にされる確率を下げるということは、同時に何か別の大事なものもつぶしているのかもしれないと思えてしまうときもあります。難しい天秤ではありますが、私はそういう一般の人の信仰をその人の側から考えてみるということにも意義があるように見えているのです。