昨日の補記

 昨日の記事に、周囲が困窮者の重荷を分担することに関しては負の側面も考えられるのではというフィードバック(と私は受け取りました)をいただきました。
 私の発想は、個々ばらばらになった「弱い立場」の人間が少しでも救われるためには「自分(たち)」だけで孤立して耐え難い努力を続けるより、周囲で少しずつ重荷を軽減できないものかというものでした。一般論で言うのは簡単ですが、なかなかこれにも難しい面があるということでしょう。


 あの番組を見た限りにおいては、幾人かの方々はその周囲の援助が得られないために理不尽に苦しんでおられるように感じられたのは確かです。トラックバックにもありましたが、家族で面倒が見られる(と考えられる)うちは生活保護を与えない…という制度的な縛りがそこにあるのは事実でしょう。それがあの缶拾いの老夫婦にはマイナスになってしまっていたのだとも考えられます。


 日本が近代化していく中で、理不尽とも思えた様々なしがらみから人が抜け出ていったのは確かなことだと思います。地縁、血縁、家業その他もろもろのことが個人を縛る力は弱くなる方向へ向いました。それは独立自尊で生きていきたい。自由に生きていきたいという「個人」重視の価値観・ニーズにもかないましたし、人々の流動化は産業の再編や構築、市場の創出という点でも成長する経済に寄与し、ある時点ではものごとはどんどん良い方向に行っている(行くことができる)という幻想さえ生んでいたと思います。
 ところがやはりものごとには両面あって、地縁から切り離され、血縁からかなり自由になった個々人、核家族化して細分化した小さな「自分(たち)」は、いざ経済的逆境や成長が期待できなくなった社会においてわが身を守る盾の多くを失っていたことに気づくのではないかと…。都合のいい側面だけのものはないというごく当たり前のことだったのだと思われます。
 小さく分かれ流動性を得て自由に動けるアトムは、順境にあってこそ、それぞれが成長することによって全体の成長や多様化にマッチするのでしょう。いったん逆向きの風が吹けば、その小ささが禍してストレスに耐える余裕がなくすぐに困窮してしまうことになるのだと考えられます。そこにあった「小さな幸せ」は意外にもろいところを持っていたということでしょうか。
 結局のところ万能の処方箋などないということ、そして近代化があまりにも急速で社会構造の変化が一方向的過ぎたというあたりが実際のところだと思っています。話がちょっと大きくなり過ぎましたね…。


 個別の家族の事情、個人の事情というものは千差万別ですので、こうした一般論では語りきれるものではないと思います。ただ、個々の人も大きな流れの中にいるのは確かです。
 一人一人の自由度を上げ好きに生きるという方向と、いざという時に助け合える仕組みを温存するという方向は逆ベクトルのものではないでしょうか。どちらか一方ということではなく、この兼ね合いをどこらへんで妥協して置けるかという選択が様々な事情に合わせて選択できるようなシステムができれば、それが精一杯のところかなと考えます。
 単にノスタルジックに「昔は良かった」とレジームを巻戻すのではなく、突っ走り過ぎた流れを見直して、是々非々で過去と現在の冷静な計量判断が必要になっていると私には見えます。そういう試みをしてくれそうな集団や政党は見かけませんが、これから出てきて欲しいなと思っています。


 胃がもたれるような話で、昨晩寝苦しく悶々としていた所為か切れのない話ですが、とりあえず今言えることはこのぐらいかなということでご勘弁を。
(※少なくとも「家族で面倒が見れるうちは生活保護を与えない…」というシステムにいかに一片の合理性があろうとも、この互助のあり方が押し付けられていると感じてしまうのは理解できます。私は一昨年の夏にある事情で「もう実家には泊まらない!」と切れたものでしたが、その後父母の病気、入院、手術などでそこらへんはぐだぐだになったという経験をしました。家族は本当にわからないものです…)