意識について考える一つの試み

 意識について考えるということは私たちにとって常に難しいことです。私たちはいつも「意識している」のであって「意識について考える」ことはしていないからです。それだけチャレンジングで面白いのかもしれませんが…。良く知っているつもりで、実は何だかよくわからないというのが謎めいていますね。
 昨日少し触れたように、意識について明確に「それは何々である」という定義付けは十分に為されているとは考えられません。

 人は心というものが何者かわかっていないのに心理学を作って(しまって)いる

 というのは、確かフッサールが『厳密な学としての哲学』の中で心理主義批判として出してきた言葉だったと憶えていますが、まあ心理学については遂行的な学問としての意味はあると思いますので、先行して定義付けが絶対に必要というものではないかもしれません。
 さて、意識とは何かという古い疑問に科学が何も挑んではこなかったということではもちろんありません。少々古いものではありますが、"NewScientist"誌で、2000年の3月にアイオワ大学の神経学者アントニオ・ダマジオのインタビュー記事がありました。(今でも、同誌に登録すればこの記事を読むことは可能です。"I feel therefore I am"11 March 2000, David Concar, Magazine issue 2229)
 確か同誌の記事のメール配信(日本語訳)が当時のMSNニュースでピックアップされていて、それを興味深く感じてプリントアウトしたものが手許にあります。そこから少し引用してみましょう。

 我感じる、故に我あり ―科学は意識を説明できるか 2000年3月23日 翻訳・畑佳子

 ダマジオらはどのような学説を唱えているのだろう。近著『感知能力(The Feeling of What Happens)』では、様々な研究例をとりあげ、意識についての刺激的な学説を展開している。脳だけではなく、肉体全体を感知力の中枢に位置づけているのだ。脳と意識の研究の最先端にいるダマジオに話を聞いた。

NS: 意識の問題は、哲学者や神秘主義者にとっても長い間謎とされてきたというのに、なぜ科学の世界で注目されるようになったのでしょう。


 今やこの問題も解決できる、あるいは少なくとも科学的研究が可能であるとみなされるようになったことが、昨今の展開の背景にあると思います。生物学全体における過去10年間のめざましい技術的進歩に、画像化の新技術が追い風となって、さまざまな学説が唱えられるようになったのです。

NS: 意識を説明するための手段は確保されているのですか。


 今回の著作では、意識の問題を二つの部分に分けて論じています。まず、いわゆる「脳の中の映画」つまりわれわれの頭の中を常に駆けめぐっている統合されたイメージの流れをいかに説明するかという問題があります。次に、この「映画」を自分のものだとする感覚、つまりわれわれの「自我」がこれらのイメージや考えの主体として存在するという感覚をいかに説明するかという問題です。…現在の科学力で「脳の中の映画」の問題を本当に解くことになるのでしょうか。それはまた別の話です。脳内の神経活動パターンについて今の科学で解明し得ることと、頭の中のイメージについて現在わかっていることとの間には、実に大きな落差があります。…

NS: 意識研究における大きなネックの一つとして、われわれの内的世界が本来プライベートなものであるという点があります。「脳の中の映画」なるものを共有するために互いに心の中に踏込んでいくようなことが可能になると思いますか。


 ちょっと待ってください。他人の経験をダウンロードするために相手の頭の中に入りこむという意味ですか?ならば、心配は無用です。心のプライバシーが侵害されるようなことには決してならないでしょう。
 仮に「脳の中の映画」がいかに作られるかについて大きく理解が進むようなことになったとしても、他人の「映画」を見たり、その意味を解読することができるようになるとはとても思えません。その人物でない限り、主観的な視点を持ち得ないからです。
 「脳の中の映画」は主観で上映されているという事実があってこそ、その人物の意識となるわけです。
 人の脳の中でどんなことが起こっているのかを知るための方法なら、いくつもあります。将来的には、ニューロンの働きを使って、今よりずっと簡単に調べることもできるようになるかもしれません。それでも、他人の「映画」を本人と同じように見ることは絶対にできないでしょう。

NS: 今回の著作では、この考えを展開するにあたり、人間の自我を「原始的な自我」「中核となる自我」「自伝的自我」の3つの要素に分けていますね。その3つを、今こうしてこのホテルの部屋で座ってお茶を飲んでいる私が経験していることにあてはめて説明してもらえますか。


 「原始的な自我」とは、その人物の肉体の内的状態や血流という化学現象、心や体で何が起こっているか、手はどこにあるかなどを表す脳内の像が集まったものです。このモニター作業の多くは、脳幹や脳底部にある原始的な構造がつかさどっています。「原始的な自我」は、たとえば誰かがあなたの手に熱いお茶をこぼすなどして注意が肉体に向けられることがない限り、あまり自覚されません。


NS: では、「中核となる自我」の役割は?


 たとえば「あなたに向って話をしている私」など、一旦あなたが何かに注意を向ければ、その注意の対象もまたあなたの脳の中に写し出されます。さらに、それはあなたを物理的に変えることになります。たとえば、私を見るとき、あなたは私を正しく認識できるように自分の頭や首の位置を正します。


 したがって、たった今あなたの頭の中には、二つのことが起こっていることになります。ひとつは、私に耳を傾けるためにあなたの体内システムに変化が生じていることであり、もうひとつは、外的対象である私がその変化を生じさせているということです。
 さらに、その二つが合体して互いの関係づけが行われるという、もう一つ別のレベルのことも脳内で起こっているのです。ここで生じるのが「中核となる自我」、つまり、あなたが有機体として今ここに存在するという、きわめてシンプルな感覚です。


NS: もし私にこの「中核となる自我」しかなければ、今私の頭の中はどうなっているでしょうか。


 自分自身に関する知識や言葉によって複雑化されることのない、一種の純粋な自覚を持つことになるでしょう。あなたは外界に目を向けて自分と関連づけようとはするでしょうが、自分が何者であるかについてはそれ以上考えることがないでしょう。生後6ヶ月の乳児は、この程度の「中核となる自我」しか持っていないと考えられます。
 しかしその状態を想像してみるのは困難です。実際には脳は常に記憶や言葉を掘り起こしては、拡大された意識(自ら言い表した自我)を「中核となる自我」に結びつけることにより、言ってみればアイデンティティや個性に常に論評を付け加えようとしているからです。

NS: 人が突然「中核となる自我」を失えばどうなりますか。


 「欠神発作」と呼ばれている障害に苦しむ人と同じような行動を取るでしょう。
 これはてんかんの発作の一つで、意識が感情や注意力と共に一時的に失われるものです。仮にあなたが今この発作に襲われれば、私に反応することができなくなり、ただ黙ってうつろにあたりを見まわすだけでしょう。
 …その行為には脈絡がなく、何の目的意識に基づいたものでもありません。しかも、その発作の間に起こったことは一切憶えていないのです。

NS: 著書では、人間の意識は進化の最高点に位置するものではないと述べていますね。意識でないとするなら、一体何が最高点に位置するのでしょうか。

 意識によって生じるすべての産物、すなわち両親、道徳観、宗教、法律、化学、芸術こそが最高点です。こうした産物を得ることができるのは意識の力があってこそだと思います。自我や他者という感覚がなければ、われわれが築いてきたような形で道徳原理を築くことはできなかったはずです。
(文中、NS: はニューサイエンティスト誌のインタビュアー)

 すでにこの記事から7年も経っていますので「最先端」とは言えないでしょうが、なかなか興味深い視点を与えてくれるものとして思い出しましたので書きとめておきます。