信を語ること

 以前に紹介したアントニオ・ダマジオのインタビュー記事の中に、彼の語る次のような一節がありました。

 前著「デカルトの誤謬(Descartes' Error)」では、感情は肉体そのもので起こるプロセスに大きく依存していると主張しました。たとえば、驚くと鼓動が早くなり手のひらが汗ばむのは、恐怖を感じたことの単なる副産物と思われるかもしれませんが、実際には恐怖という感情を産みだすメカニズムの一環なのです。

 実は人間の感情に関して意識変化が必ずしも先行するのではなく、そこに心身相関的なメカニズムが働いているという知見はデカルト的な意識中心の考え方への基底的な批判となり得ます。なぜならそれは、「意識が肉体の変化をもたらすという枠組みで私たちが考えることが特権的な「意識」のポジションを作り上げている」ということへの気付きだからです。
 さらにその「意識」にしても論理的な整合性に先んじて志向があり、また合理性や論理性に感情や信念といったものが先行しているということは、私たちがしばしば感じるところではないかと思います。これもまた理性といったものはある種限定的に捉えるべきということを知る契機となるでしょう。
 こうした文脈から言っても、自分の「信」を言葉で語る・理屈にするということがいかに大変なことかは想像がつくことなのではないでしょうか。おそらくそれが理性的に語られた時点で、その行為が何かを欠落させずにはおかないように思えるのです。
 ボルヘスに次のような記述があります。

 ついでに言えば、あるできごとを告白するという行為は、まさにその行為者たることをやめて証人となることである。できごとをその眼で見、それを語るが、実際に行なった者でない人間になることである。
 (ボルヘス『ブロディーの報告書』「グアヤキル」より)

 私にはこの言葉が「信」を語ることの難しさにつながってあるようにも見えています。
 「知行合一」は意外に難事であるということかもしれません。