受け容れ難いものを受け容れる

 今日になってantonianさんのところの記事で一匹の犬の死を知りました。生前のことを耳にして、またこのように訃報を聞くというのも他生の縁。悲しさが込み上げてきますが、ただただ悼むばかりです。
 何といっても縁あるものの死はつらいですし、まして実人生に深く関わったもの、あるいは家族の死が受け容れ難く思えるのは仕方がないことです。おそらくそこで、その死を組み込んだ自分への変容が必要になってくるのでしょう。それは辛く悲しくやりきれないものですが、時の助けも借りて、人はそれを受け容れて生き続けることになるのですね。
 今朝もまた奈良橿原市の妊婦さんの流産のケースがニュースで取り沙汰されています。彼女のお気持をほんの少し推し量っただけでもおつらいだろうと思えるのですが、メディアは当の女性の悲劇を用いてさらにそれを煽るような方向に問題をミスリードしているようにも感じられてなりません。
 とりわけ奈良で「たらい回し」とリードされた前回のケースの詳細を(メディア―特に毎日新聞―とは異なる視点で)伺う機会もありましたので、そのケースが今回持ち出されて喧しく云々されているのを見るにつけ、お願いだからよくよく調べて報道してほしいという気になるのです。


 こうしたものに関連して、病院で亡くなられた方のご遺族やメディアがリードする医療機関への譴責はやり過ぎではないか、下手をすると医療崩壊につながると心配する立場に私は共感的です。それゆえ、たとえば小倉弁護士のサイトの次の記事には違和感があります。


 汚れ役を押し付けないでね


 病院で亡くなられる方は「医療ミス・診療ミス」でのみ亡くなるものでしょうか?
 ミス(過失)があったならば責任問題ですが、医療現場での患者さんの死は必ずしもミスでのみ発生するわけではなく、患者さんが亡くなられたことに対するやり場の無い感情が殊更医療現場への譴責へと向ってしまう。そしてメディアがそれを煽り、事実確認より先に問責するような態度を取るということが一つの問題なのではないかと私には見えます。もちろん事態のすべてがそうだとまでは申しませんが…
 

 天気予報が外れると、その不都合な天気の責任まで含めて予報士を責める言葉を口にする人が知り合いにいます。予報士は呪術者ではないのだからそこまで責めても仕様がないよと私は言うのですが…。期待するところが大きいだけ「完璧でなければ責める」という無体なことが行われるのは、メディアが煽る医療問題のケースに似ていると思えます。もちろん過誤があるのならばそれを追求して欲しいとは私も思っています。とにかく「型にはまった」予断で作られた情報を垂れ流すのでなく、きちんと調べて淡々と報道してくださることだけを望むだけです。


 Hippocrates、『技術について』(第8節より)

 病膏肓に入った患者の治療には手をくだそうとせぬ医師があることのために、医術を非難してこう言う人がある、医者はひとりでに癒る病気には手をつけるけれども、もっとも助力を必要とするところの病気には手をくだそうとしない、しかしいやしくも医術があるからには、すべてが平等に治療を受けねばならないと。
 さて、こう言ったところの人々が医師たちを非難して、医師たちは自分たちを気違い扱いにして構ってくれないと言うとしたならば、それは先の非難よりもまともであろう。なぜならば医術のおよび得ないことを医術に対して要求し、自然(人体の自然的力)のおよび得ないことを自然に対して要求することの無知は、無知よりもむしろ狂気に縁が近いからである。なぜならばわれわれは身体にそなわる自然的手段によって征服することの可能な病気を扱うことを業とする者にはなり得ても、そうでない病気を扱う者にはなり得ないのである。それゆえもし人間が医術にそなわる手段よりも優勢な病患におかされるばあい、これを医術で征服できるなどと期待してはならないのである。
 例えば医術で用いられるところの各種の焼灼処置の中では火の焼灼力が最強であり、他にもまたこれより弱い焼灼処置がある。さて、弱い方の焼灼処置よりも強力な症状が癒せないとは限らないことは明らかであるけれども、最強の焼灼処置よりもさらに強い症状が癒せないことは明らかではないか。なぜならば火が作用しても征服できない症状には別の処置が必要であるし、火が有効な処置であるばあいには別の処置は不必要なのである。思うにこれと同じ理屈が、医術に協力する他のあらゆる手段についても言えるのであって、医者が成功をおさめ得なかったばあいの責が症状の力の方にあって医術にはないということが、それらのどれについてもあてはまるのである。
 それゆえ病膏肓に入った患者には手をくだそうとせぬ医師を非難する人々は、力のおよばぬものにまでも力のおよぶものと変ることなく手を出せと勧めているのである。これを勧める人々は、名前だけの医師から感嘆されこそすれ、医の術による医師からは嘲笑を受けるのである。
 非難者にせよ、賞賛者にせよ、この道を業とする人々にとってはこのように愚かな人々が必要なのではなく、彼らの業績がどこまで到達しており、したがって完全であるのか、どこが欠けているがゆえに不完全であり、しかもその欠陥はそのどこまでが彼ら自身に帰せられるべきで、どこまでが仕事そのものに帰せられるべきであるかを、よく考慮してくれた人々が必要なのである