眠れない

 ♪眠れない夜と雨の日には 忘れかけてた…
 愛はよみがえらないのですが眠れません。明日は6時起きで7時前に都内へと(どこかで)考えれば考えるほど妙な緊張が眠りを妨げます。
 今日も仕事。明日も明後日も別口ですがお仕事。
 普段は布団に入って目をつぶっていれば眠れてしまう時間に眠れないのは、眠らなきゃだめと強迫観念に追い詰められている所為なんでしょうね。完徹OKと開き直れてしまえばいいのでしょうが、それが来ないのなら何とかしなければいけません。
 よりにもよってお酒は切れていたので、買いに行こうかどうしようか小一時間悶々としていました。というところで天啓のように思い出したのがズブロッカ。冷凍庫にこれだけは密かに保存していたんですね。偉いぞ自分。


 ということでもう二杯目です。そろそろ少し眠気がきたようで、睡眠時間は足りなくてもこれなら何とかなるでしょう。これで何ともならないようなら、ズブロッカに目薬でも何でも入れて(←都市伝説?)とにかく潰れてしまおうと思い詰めてます…これがいけないんでしょうけど。


 もう大学の頃から、いざという時のお酒は用意しているということを忘れてました。大抵は「いざ」でないうちに飲んでしまったりして、非常用というにはあまりにも不確かなのです。お酒が切れるのを少しでも不安に思うようなら依存症ではないかと悩んだ時もありましたが、二週間ほど入院した時に大丈夫だったので「自分はまだ平気」と思うようにしております。

 月花もなくて酒のむ独り哉
              はせを

 お酒は好きだから飲む。それが本来だと思うのですけれど、こういう時はいたし方ありません。
 それにしてもこの芭蕉の句、季語は何になるのでしょう? 


 季語といえば俳句のお約束なのですが、これはもともと言葉が喚起する「共通感覚」をいうものに他ならないと思います。季節を感じるその言葉に呼び起こされるものが共有されていればこその季語なのでしょう。
 ですから、いちいち『歳時記』を調べての季語探しは本末転倒でしかないのでは? それはその言葉の感覚を共有していないことの表明に他なりません。


 現代でしたら、たとえば「卒業」。たとえば「初恋」。その言葉が喚起する甘いような切ないような、そして誰しもが(こっ恥ずかしくて)悶えるような共有する感覚こそ、俳句などに入れなければならないものではないでしょうか?
 夏でも冬でもエアコンで室内は快適…みたいな時代には、もはや季節感覚が必須の「共通感覚」ではないかもしれないと時折思います。


 ごちゃごちゃ書いていてもなかなか眠くならないのですがどうしましょう?
 どうしましょうと言っても誰かに何か期待できるものではないですので、また布団に入ることにしましょう…


 おやすみなさい