欠けたところを持つ子供たちの物語「NARUTO」

 実は今年の夏前まで「NARUTO」を見ることはありませんでした。いえ、何かの機会にマンガなりアニメなりを目にしたことはあったかもしれませんが、ただ単によくある「努力・友情・勝利」のジャンプマンガであろうと、しかも超能力じみた忍法で受けている作品であろうと気に留めることはなかったのです。
 ところがまずアニメの第1話、2話のあたりをしっかり見る機会があり、これは違うなとはっきり思いました。もちろん根性だとか勝負だとかいう感じのものもありますし、現実ではあり得ない忍法の要素も強くあります。でもこの作品が描こうとしているものは何らかのメッセージを込めたドラマであろうということがひしひしと伝わってきたのです。勝手読みですが…。


 そのメッセージとは、「成育過程で何らかの欠損を抱え、自己承認に問題を持つ子供(たち)も成長していく(ちゃんと大人になることができる)」という物語ではないかと私には受け取られました。


 主人公のナルトをはじめ、ここに出てくる主だったキャラクターたちは皆何らかのコンプレックスを持って登場してきているように思われます。親がいなかったり、能力が乏しかったり、容姿に欠けていたり…そして皆「自信が持てない」という罠にはまる時期があったりします。
 でもそんな中で、一番「普通ではない」ところを持つ落ちこぼれのナルトが、先生の信頼を得、友人ができ、弱さを克服しつつまっすぐ明るく生きていくのです。そしてそのひたむきさは周囲をも変えていきます。
 決して一本調子ではなく、でも確実な主題の下に展開されるこのドラマが多くのファンを持つのは当然だったのかもしれないと、今までひどい食わず嫌いだったなと強く感じました。
 「ぜってー俺を認めさせる!」
 とはナルトの口癖のようなものですが、この物語がアメリカあたりでも受けたのは、アメリカ社会も「自己承認に飢えている」ということの表れなのかもしれません。


 何らかの欠損・欠落、そしてそれからくるコンプレックスというものは誰もが必ず感じることがある感情ではないかと思います。そこにその人を襲う運命の強弱、多寡というものも確かにあるでしょう。でもそれでもなお「自分を信じる心」で運命を乗り越える、それが可能だというメッセージを発し続けるこの「NARUTO」は、なまじっかな同情などよりも強く多くの子供たちに訴えかけられる大きな意味を持っているような気がします。


 こうした捉え方も案外ファンダムでは常識なのかもしれませんが、他の人の評判を聞くよりもまず自分でコミックスを夢中で読み、アニメを録画し続けて私はこういう感想に至っています。夏になってからせっせとマンガ喫茶的なところに通って(実は山形に旅で立ち寄った時にも「三時間」は駅前のコミックカフェに行ってました 笑)、ある程度は新古書屋でコミックス等も入手しました。ちょうどキッズ・ステーションで再放送が集中的になされているのもラッキーでした。
 ほとんど引越しと仕事で忙殺されているのですが、「欠けたところのある子供」に絡んだ話題を一部で目にしましたので、この夏相当にはまった「NARUTO」のことをちょっと書いておこうと思いました。いいものに出会えたという感じが本当にしています。